プラント教授の乳がんとの闘い
Your Life in Your Hands
| ジェイン・プラント(Jane Plant)は1945年生まれの有名なイギリスの地球化学の研究者で、その研究功績により大英帝国勲章のナイトに次ぐコマンダー(CBE)の称号を受けている。プラントさんは1987年、42歳で乳がんになったが、科学者の目で自分の乳がんの発生原因を身に付いた観察力と分析力で追求し、その後4回にわたる乳がん再発をのり越えた。その体験に基づいて、プラントさんが著した書物が「Your
Life in Your Hands」である。 書名は「自分の命は自分で決める」「生きるか死ぬかはあなたしだい」とでもいうのだろう。なぜ乳がんになるのか、乳がんになったときの医療との向き合い方、再発を防ぐための食事療法などを述べている。和訳されて当然の内容であるが、日本には欧米に比べて乳がんが少ないから市場価値がないと判断されたのか、他に理由があったのか日本で翻訳出版されなかったのは残念だ。プラントさんは、女性が乳がんになり男性が前立腺がんになるのは人間が本来口にすべきではない牛乳・乳製品を飲みかつ食べるからであると断じている。そして、不幸にも乳がんあるいは前立腺がんになった人は、自分が乳がん・前立腺がんになりやすい遺伝的資質(体質)の持ち主であることを自覚して、牛乳・乳製品を完全に断つことを勧めている。 ヘビースモーカーのすべてが肺がんになるわけではないのと同じ理由で、牛乳・乳製品を好んで口にするものがすべて乳がん・前立腺がんになるわけではない。しかし、集団的レベルでみれば牛乳・乳製品を多飲・多食する国々に乳がんと前立腺がんが多いのは明らかである。プラントさんが乳・乳製品を完全に遠ざけることによって再発を繰り返す乳がんを克服したからといって、その方法がすべての乳がん患者に効果があるかどうかはわからないが、彼女の理論には耳を傾ける価値が十分ある。この本は2000年に出版されたものなので、いまさらの翻訳出版は難しい。私が一部を要訳してお伝えする。 |
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1.乳がんになった! 自分が乳がんになるなんてただの一度も考えたことはなかった。タバコは吸わなかったし、できるだけ紫外線を浴びないようにしてきた。アルコールはめったに飲まなかった。専門家が身体によいという食生活(低脂肪食)を送るように心がけてきた。化粧品だって成分をチェックして有害な化学物質を含まないものを使ってきた。それなのに私は乳がんになった。 1987年(訳者:プラント教授42歳)に、カナダのトロントで学会があった。学会出席の前にカナダ北部で金鉱の調査を行っていた。なぜある特定の場所に金(きん)が10,000倍も濃縮されるのかという問題を探るためだった。その日は、得られた調査結果に満足してホテルに帰った。 鉱山で仕事をするのは大変なことだ。坑内は暑いし湿気もすごく汗びっしょりになった。部屋に入ると、とる物とりあえずシャワーを浴びた。素晴らしい香りのソープ、柔らかなタオル。すべてが満足だった。身体を拭きながらベッドルームに戻ってブラジャーを探した。夕陽の中で何気なく左乳房に目をやるとえんどう豆ほどの大きさのしこりが見えた。触れてみると硬かった。恐怖感が襲った。「ガンだ」。口が渇いて吐きそうになった。 自分自身に怒りを覚えた。なんでもっと前に調べなかったのか! まだ42歳だ、がんになるには若いのではないか。子どもがいる、満足すべき研究成果をあげてきた、前途は洋々と開けている。それなのにこの私ががんにかかるとは! 心臓が止まりそうだった。すべてが氷りついてしまう瞬間的だった。 少し落ち着きを取り戻してから、さて何をすべきかと考えた。夫は仕事でジャマイカに行っている・・・連絡しようにも電話番号が分からない。二人の子ども(12歳の娘と5歳の息子)は祖母の家にいる。子どもに話したところでびっくりさせるだけだ。そうだ、カマック先生に電話しよう。カマック先生は、子どものときから診てもらっていたお医者さんで母のかかりつけ医でもあった。 イギリスは真夜中だったと思うが、カマック先生は在宅で親切だった。電話口で彼の言葉にしたがって触診し、おそらく乳がんだということで意見が一致した。ただし、病変は他に広がっていないようだから、イギリスに帰ってからしこりを摘出すればよいということになった。 私の魅力はほっそりした腰と形のよい大きなバストだった。そのバストの片方を失ってしまうのだ! 夫や子どもたちにどう話したらいいのだろうか。世間の人は私を可哀想だと思うだろうか、同僚はどう思うだろうか。 2.チャリング・クロス病院へ 最初に病院を訪ねたときの光景が忘れられない。待合室は緊張した面持ちの女性と付き添いであふれていた。恐れと不安でいっぱいの雰囲気だった。言葉を交わすものは誰もいなかった。お互いに視線を合わすこともなかった。女性はみんなこざっぱりしていた。年齢はいろいろで、体格と体型も違っていた。二人は黒人、一人の女性は外見からしてインド人らしい、中東出身らしい女性が二人、しかし東洋人は一人もいなかった。 あとで思い返して見ると、このときすでに、乳がんクリニックの待合室にいる女性を眺めながら、私は乳がん患者の共通点を探り出そうとしていたようだ。それが簡単なことなら、とうの昔に誰かが探り当てていたはずだ。しかし、私の科学者としての本能が何かを捉えようとしていた。恐れおののく患者の顔をみながら(もちろん私自身もおののいていたが)、このときすでに、患者だけでなくその家族や友人を恐怖に陥れるこの乳がんという、世界中にまん延している病気の背景には共通した何かがあると考えていたようだ。 結核などの感染症の減少は抗生物質だけによってもたらされたわけではないが、抗生物質は感染症に対してまさしく魔法の弾丸であった。医学界は、物があふれる豊かな時代に増えている病気の代表であるがんに対しても、魔法の弾丸探しに躍起となっている。そんなものがみつかるわけはない。いまの医学界がしていることは秦の始皇帝の「不老不死の仙薬」探しのようなものだ。 乳がん研究に莫大な資金が投入された。この時代、ある研究が行われるとその成果を利用して金儲けのビジネスが動き出す。医学界は、製薬会社が儲かる薬剤の開発に血眼(ちまなこ)になっている。乳がんをネタにしてタモキシフェン(Tamoxifen)という薬剤を製造・販売する巨大ビジネスが誕生した。乳がんになりやすい欧米の女性の血液にはエストロジェン(卵胞ホルモン)が高いということが知られていた。そこで、エストロジェンを下げるような薬剤を開発すれば乳がんの発生を抑えられるのではないかという発想がビジネスマンに芽生えたのだ。 乳がんと診断されて治療を受けてから4回の再発があった。私に発生した乳がんは進行性で、最後の再発では頸部リンパ腺に転移した。乳がんの治療を受けながらずっと、自分の乳がんを自分なり(科学的)に追求し続けた。なぜ私が乳がんになったのか、どうしたらこの苦境から抜け出せるかと。 最初は混乱していた。そして何よりも死の恐怖におののいていた。医師が使う、わけの分からない専門用語にも苦労した。しかし、私に施される治療の根拠を医師に問い続けた。治療の結果も自ら分析した。がんに関する理論をできる限り勉強し、現在の治療に替わる治療法(代替療法)はないかと探索した。私のしたことは、治療を担当したがん専門医には受け入れがたいことであったかも知れないが、自分ががんになったという異常な体験が、私の病気に対する考えを変えた。私は自分が犠牲者だったとは考えていない。いま思い返してみると、結局この探究心が私の命を救ったのだ。 ときどき、非常に困惑することもあった。当時、乳がん専門医の間で、腫瘤摘出術(乳房温存手術)がいいか乳房全摘術がいいかを巡って、深刻な意見の対立があった。今だって、マンモグラフィーや化学療法を巡って激しい意見対立がある。患者はこれらの専門家の意見対立に巻き込まれて右往左往してしまう。あとで述べるように、私も最初の外科治療の選択を誤った。しかしその後の治療法の選択では、自分の科学者としての経験が大いに役立った。 乳がんと診断されてから、乳がんに関する学術論文を読み、得られる情報を分析・評価した。数十年も前から素晴らしい研究が行われていた。文献は情報の宝庫であった。ただそれが一般の人々に届いていなかったのだ。ずっと前から 3.乳がんになって考えたこと 乳がんと診断された人なら分かってくれると思うが、私がまず自分自身に発した問いは「なぜ私が乳がんに? なぜこんな恐ろしいことがほかでもないこの私に起こったのか?」であった。そして最終的に出した回答は、さらに不安と後悔をかきたてるものだった。「私自身は健康的な生活を送っていると思っていたが、自分が乳がんを招くような生活をしてきたのだ」ということを痛切に思い知らされた。また次のような結論も得た。「西欧女性の生活が乳がんリスクを高めている。さらにこのリスクは毎年毎年高まっている。」 欧米の女性のがんの中では乳がんが最も多い。たとえば、ヨーロッパ連合(EU)でみると、女性のがん死亡で2番目に多い大腸がんに比べて、3倍もの女性が乳がんになる。25歳以下の女性の乳がんは稀で、乳がん患者の5人のうち4人は50歳以上である。ほとんどの欧米諸国で、40-55歳の女性の死因の1位は乳がんである。 欧米でも、乳がんの生涯リスクは、アメリカでの8人に1人から南欧での20人に1人まで、地域によってばらつきがある。イギリス女性は12人に1人が乳がんになる。困ったことに、この数十年で乳がんの発生は非常に増えた。アメリカを例にみてみよう。1960年代に乳がんになったのは20人に1人だった。それが1991年になると9人に1人となり、現在では8人に1人である。1979年から1987年のイギリス女性の乳がん発生率は年率2%の増加であったが、1988年から1992年の年間増加率は4・5%に上昇した。 乳がんがこんなに増えたのだから、私が乳がんになったのもさして驚くにはあたらないことかもしれない。私が最も驚いたのは、西洋人と東洋人における乳がん発生率の違いであった。西洋では多くの女性が乳がんになるのに、乳がんになる東洋の女性は少ない。肺がんが喫煙者に多いという事実から類推して、西洋と東洋におけるこの大きな違いが乳がんの発生原因に関する最初のヒントを与えてくれた。このことを詳しくお話する前に、乳がん患者の私がどんな治療を受けてきたかお話しよう。 乳がん治療の主流は外科手術、放射線治療、抗がん剤治療である。私の受けた治療も典型的なものであった。乳房切除とさらなる3回の手術、35回の放射線治療(そのうち5回は放射線を卵巣に放射して、更年期を早めてエストロジェンの分泌を抑えるために行われた)と12回の化学療法であった。次から次へと引き続いてこれらの治療を受けたわけではない。その合間にあとで述べる食事療法も行った。食事療法は概して、正統ながん専門医に評判が悪かった。 しかし、乳がんになった人に是非知っておいて欲しいことがある。手術、麻酔、放射線、抗がん剤などはいずれも、患者の心身に多大な苦痛を強いる。患者には息抜きが必要で、さもないと治療をあきらめて一切を投げ出すことになりかねない。とくに化学療法は苦しく、白血球の著しい減少をもたらすこともある。肉体的にも心理的にも、日常生活において治療に備える必要がある。私が行った食事療法は私の身体を支えてくれた。科学的知識を動員して、放射線や抗がん剤がその目的を果たしたら、できるだけ速く体外に追い出す簡単な方法を考案した。この方法を後ほど記すので参考にして欲しい。 がん患者は、がんになったのは自分が悪いのではないかと感じることが多いーたとえば、遺伝的に問題があったのではないか、自分の性格のせいではないか(今までの研究によると「がん性格」などというものはない)、過去の行動の過ちが原因ではないかなど。これは誤りである。乳がんになったのはあなたが悪かったからではない。 がん治療は患者に次々といろいろな処置を行うから、最後には何がどのように行われているのか分からなくなってしまうことがある。がん患者は心理的に脆くなっている。絶え間なくいろいろな処置を受けていると、自分で考える力を失って「もうどうでもいい」と感じてしまう。しかし、患者が自分で自由に決める意思を持ってはじめて、医師と建設的なパートナーシップが築けるのだ。私は医師に任せきりにはしなかった。私に絶えず死の恐怖をもたらすThe Big C(訳者:C = Cancer、がんのこと)の本体を見つけようと努力した。 乳がん治療の場合、専門医(外科、放射線治療、抗がん剤治療)はそれぞれ違った役割を担っていることを理解しなければならない。患者を治療する医師は、正統な標準的な治療しか行わない傾向にある。標準的な治療はいわゆる統計学的な「証拠に基づいた治療」で、あくまで万人向きである。他のひとに有効であった治療が、必ずしもあなたに有効であるとは限らないのだ。医療訴訟が多くなったから、医師はますます標準的な治療から離れられなくなった。少しでも標準医療から逸脱した治療を行って失敗すれば、訴えられてしまうからである。 食事による病気の治療は、西洋では、紀元前400年のヒポクラテス医学にまでさかのぼる。ヒポクラテスは、病気が魔力や超自然的な力によって起こるという考えを排し、病気にはすべてそれなりの合理的な原因があると説いた。ヒポクラテスは、病気の原因は、吸う空気、飲む水、食べる食物の中にあり、空気、水、食物を正せば本来備わっている自然治癒力によって病気は治ると説いた。このヒポクラテスの考えは現在でも基本的に正しい。 どの職業でも同じであるが、医師の能力にもピンからキリまである。私が関わった医師たちも同様であった。ある面では私は幸運だったのだろう。私は最初から、医師の前で思った通りのことが話せないなどということは全くなかった。私は、科学者として仕事を始める前から、精神科医による父親の病気治療を目の当たりにしたために、医学界の慣習・因習に対抗する術(すべ)を身につけていたように思う。 父は非常に賢い人だった。私は今でも父が学校時代に受けた数々の賞を保管している。けれども悲しいことに、父は躁うつ症で、ときどき激しい発作に襲われた。1950年代から1960年代の初めにかけて、私費で何人かの精神科医の治療を受けていた。治療代は高く、母は治療費を稼ぐために懸命に働いた。私の脳裏には、もっともらしく権威を振りかざしながら苦悩する人々から金を巻き上げる人たちの言動が焼きついている。私は今でも、LSD(飲用により幻視を中心にした精神病状態を起こす)を飲まされ、電気ショック(脳に電流を流してけいれんを起こす精神障害に対する療法)を受けたときの父の姿を覚えている。その当時の電気ショック用器具はあまりにも不具合で、患者の脳がどの位の電圧・電流に曝されるのか誰にも分からなかった。悲しいことに、父は人格も知能も崩れてしまって、行動はまるで子どものようであった。私は今でも、病院に連れて行かないでくれと哀願して泣き叫ぶ父の姿が忘れられない。その当時だって、リチウムを用いるもっと穏和な躁うつ病の治療法があったのだ。父の医師たちは、電気ショックなどという拷問用具を使う前に躁うつ病に対するリチウムの効果を聞いていなかっただろうか。おそらく知らなかったのだ。私はそれ以来、しばしば医師とうつ病について話し合ったが、誰一人として躁うつ病に対して電気ショックを正当化する医師はいなかった。ある脳化学の研究者が言うには「テレビが故障したときに、蹴飛ばすと映ることがたまにはあるだろう。電気ショックはあれと同じようなものだ。」一方、リチウムの躁うつ病に対する効果に関する説明は納得できる。リチウムは、脳細胞への水の出入りを制御するポンプシステムを利用して、細胞からうつ症状を起こす化学物質を汲みだしているのである。 この対極にある存在として、出逢った中で最も賢明かつ思いやりのある医師であったカマック医師(私がカナダで乳がんに気づいたとき、まず最初に電話した医師)をあげることができる。父が死んだとき、私の母は深い悲しみのあまり取り乱した。抗うつ剤の替わりに、カマック医師は母に一匹の可愛い子犬を持ってきてくれた。もう大丈夫、一人でやっていけると感じるまで毎日、彼は母を訪ねてきた。おかげで母の回復は早かった。実際、薬剤よりプードルの方が治療効果の大きい患者もいるのだ、変わった処方ではあるが。 イギリス患者協会によると、イギリスには最良の治療を求めないで、「お行儀のよさのために死んでいる」がん患者が多いという。さらに患者協会は、イギリスのがん患者の生存率は、他のヨーロッパ諸国に比べて低いという。その理由は「はい、先生」症候群がイギリスに蔓延しているからだというのだ。無作法にもならずましてや攻撃的にもならずに、乳がん患者が医師と建設的な納得できる話し合いをするためには、患者がまず治療に関していろいろな選択肢があることを知らなければならない。 乳がんとうまく対処するためには、患者と医師の関係が決定的に重要である。不安と心配は当然であるが(私などはいつも恐れおののいていた)、健康を取り戻したいという気持ちを強く医師に訴え、どんな治療の選択にもすべて自分の責任で関わることを医師に伝えることだ。さらに、あなたはよき理解者(相談相手)を見つけ、そのひとと良好な関係を保つことが重要である。 知識や技術が優れていることは医師として当然である。いかに知識や技術に優れていても、常識のない医師はお断りである。患者の質問に、笑ったり、怒ったり、わけの分からない専門用語で煙に巻く医師も困りものだ。代替療法を頭ごなしに否定せず、食生活などの日常生活について患者の相談に乗ってくれるお医者さんが望ましい。 4.乳房全摘を選んでしまった! 尿検査や血液検査などは異常なしであった。マンモグラフィー、腫瘍の針生検、胸部X線検査、肝臓の超音波検査と骨のシンチスキャンも受けた。私が受けたマンモグラフィーは、ときには不快ではあったが痛いものではなかった。肺転移を調べるために行われた胸部X線検査にはもちろん痛みはなかった。肝臓の超音波検査も完全に無痛の検査で、妊娠したときに胎児の状態を調べる検査と同じようなものであった。 骨シンチスキャンはもっと複雑なものであったが、私の場合には面白いことがあった。まず放射性のジホスホン酸テクネチウムが注射された。骨にくっついたこの物質の出す放射線をコンピューターで映像化する。がんが転移していると骨が不整形に映る。私はうかつにも、この検査の前に渡された指示書を注意深く読まなかった。薬剤を注射されてからスキャンが行われるまでの間に時間があったので、付き添ってくれた友人と病院のカフェテリアでコーヒーを飲んでいた。そのため「膀胱をからにするように」という指示に従わなかったのである。スキャンされている間中、何が現れるか画面を凝視していた。スキャナーが骨盤のあたりにきたとき、背骨の一番下の近くに巨大な輝く物体が出現した。とっさにがんに侵されて車イス姿の自分を思い浮かんだ。「おしっこに行かなかったのね」という放射線技師の声が聞こえた。私の膀胱は排泄された放射性物質を高濃度に含む尿で満たされていたのである。急いでトイレに行って帰ってくると、私の背骨のがんは跡形もなく消えていた! この検査のあとで数杯のコーラを飲んだ。コーラに含まれるリン酸が骨シンチに使われたジホスホン酸テクネチウムを速く追いだしてくれるからである。そうでもなければ私がコーラなどという清涼飲料を飲むことはありえない。 最後に外科医から、すべての検査結果を知らされた。専門医は、乳腺細胞から発生する小葉がん、腺管がん(もっとも普通にみられる乳がん)など、乳がんをいくつものタイプに分類している。検査の結果、私の乳がんは1期の非浸潤性の腺管がんと診断された。この外科医は、親切かつ明確に私の乳がんの状態を説明した上で、腫瘤だけを摘出したあとで放射腺治療を受ければ問題はすべて解決するであろうと安心させてくれた。彼によると、この治療での乳がんの再発率は乳房切除(全摘)より高いかも知れないが、最終的な死亡率という点でみると両者の間に差はないということであった。言い換えると、早期がんの場合には乳房切除術でも腫瘤摘出術でも生存期間に変わりはないということである。私は迷った。乳房を失わなくてもすみそうだが、それで命を失う危険を冒したくもなかった。 この時点で私が犯した過ちの一つは、病院の乳がんクリニックに一人で出かけたことであった。あまりにも取り乱していたので冷静さを欠いていた。混乱して言われたことをよく理解できなかった。私がみなさんに伝えたいことは、乳がんの診断を受けたときには必ず夫か友人と出かけ、医師の言うことをノートに書きつけておいてもらうことだ。最初のころは、メモをとりながら医師の話を聞く余裕がない。 次の予約でいつもの外科医に会ったとき、乳房全摘を受けることにしたと彼に語った。なぜ決定を変えたのか話すことはできなかった。なぜ、彼ではなくその助手ともいうべき若い医師の言葉を信じてしまったのか今後も分からないだろう。結論を出すまでに「もう少し時間をください」というべきであった。恐れでパニックになってしまうと、普段は理性的に行動する人でも幼い子どものように振舞ってしまうことがあるのだ。しかし、私が腫瘤摘出術を受けていたらどうなったのか、これも分からないことだ。 乳がん治療を受けるときには、次のことを確かめておく必要があると思う。よい医師ならこのような質問に時間をかけて答えてくれるだろう。 チャリング・クロス病院の方針で、手術の前に外科医と麻酔医とよく話し合った。彼らの口ぶりからその処置に信頼感が持てた。それからもう一つ。これも病院の方針で、私の意識が清明なうちに、切除する側の乳房と腫瘤に黒いフェルトペンで印をつけられた。乳房に黒い印なんてと困惑したが、よい方の乳房を間違って切除されないためにはよい方法だと思った。麻酔の導入剤を注射する前に、手術医が手術箇所に印をつけることが普及するとよいと思っている。麻酔の前に不安を拭い去るために注射されて、10まで数を数えなさいと言われて数え始めたことは覚えている。目覚めたらそこはリカバリールームであった。 5.人工乳房をつけた この病理検査の結果、私にはもはや何の問題もない、今後の治療は必要ないだろうと言われた。現在と違って、私が治療を受けた1980年代の終わりごろのイギリスでは、予防的に抗がん剤が使われることはめったになかった。 その後、左腕の運動のために1、2回の運動療法を受けたが、あとは自分の仕事に合せて自分のペースでリハビリを行っただけであった。 現在でもそうしているが、私は医師の処方する薬剤も薬局で買えるくすりもできるだけ使わないようにしてきた。ステロイドは、がん患者のいろいろな不快感を緩和するために使われるが、免疫機能の低下を招く。私はステロイドを使わなかった。抗生物質の使用もできるだけ少なくした。鎮痛剤を最後に使ったのはいつだったか思い出せない。これらの薬剤ががんを再発させるわけではないが、避けられるものなら人工の化学物質は避けたかっただけのことである。 術後最初に切除した乳房の替わりに用いたのは、プラスチックウールを入れたナイロンの包みであった。6週間ほど経って傷がほとんど癒えたころ、私は外来患者として病院に通って、形のよいシリコンジェル入りの「人工おっぱい」を、親切な女性の専門家に作ってもらった。今では乳房切除後に形成外科手術(乳房再建術)を受ける乳がん患者が多い。私もチャリング・クロス病院で何回も勧められたが、仕事の都合で時間がとれなかった。もし時間があったら、シリコンなどの人工物ではなく自分の背中の筋肉で乳房を造ってもらったかもしれない。2年後に「偽おっぱい」のシリコンが漏れはじめた。こんなシリコンのような粘着性の物質を自分の身体に入れるなんてとんでもないことだと思った。そのうちに、新しく作り直してもらった「偽おっぱい」をうまく使いこなすようになった。 私は、マークス&スペンサーで買う普通のブラジャーを着けているが、「偽おっぱい」を入れる袋を作りつけにしてもらった水着をつけた上にこのブラジャーを付けるようにしている。「偽おっぱい」は気持ちのいいものではない。とくに暑く湿気の多い地質研究の現場では不快感が大きい。それよりも私の大きな問題は、この「偽おっぱい」をよくなくすことだ。あるときなどは、チャリング・クロス病院でいつもの診察を受けたあとで病院に置き忘れてきて、郵便で送り返してもらったこともあった。いまでもこのことで看護師たちからからかわれている。 乳がんになった人の、乳がんという病気や乳房切除に対する態度は様々だ。自分の病気について語る人もいれば沈黙をまもる人もいる。私は本当のことを控えめに話すことにした。他人のことだといっても、深刻な話題を耳にすることを嫌がる人も多いからだ。乳がん患者はそれぞれの方法で世の中のつきあいをこなしている。女性の多くは自分が乳房切除を受けたことを知られたくないし、乳がんだったことすら知られたくないと思っている人もいる。 この時点までで。私がして良かったと思っていることと悪かったと思っていることを参考のためにあげておく。 わるかったこと 6.乳がんの再発で放射線治療を受けた 私が手術を受けたころの医学界の見解は、医師が責任をもって治療にあたるから、患者は病気の心配なんかしなくてもよいというものであった。この考えは、こうすることが患者にとって最良であるという善意に基づくものであったと信じている。最近は、少なくともチャリング・クロス病院では医療のあり方が変わり、患者にすべてを伝え、患者の意向をとり入れて治療を行うようになったという。素晴らしいことだ。 しかし、私は「乳がんのことは忘れて前向きに」というアドバスを受け入れることはできなかった。私が受けてきた教育訓練からして、自分自身の問題に対処するために、問題をもっと合理的に理解する必要があった。「起こってしまったことは諦めるしかない」とか「治療に専念しなさい」などということでは納得できなかった。そこで乳がんに関する正統的な医学文献や代替医療に関する文献を読み始めた。そしてすぐにマックス・ゲルソン(Max
Gerson)博士やアレク・フォーブス(Alec Forbes)博士のがんの食事療法に関する書物に行き当たった。 乳がん治療を受けたあとで私自身にできることは、食事を変えることが最も自分に適った方法だと判断した。そこで自分の食事をブリストル(Bristol)の食事療法に沿ったものに変えることにした。ブリストル・ダイエットはイギリスで最もよく知られたがんの食事療法である。この食事は、堅果類、穀物、発芽している種子などの未加工・未精製の食品を純正液状バター(ギー)で調理して食べるというもので、ヨーグルトと沸騰したミルクは構わないとされていた。素晴らしい食事だと思った。チャリング・クロス病院の主治医にさえも、この食事の素晴らしさを伝えたほどである。彼らは疑いの目で見ていたが、私はもうこれで乳がん問題に悩まされることはないと信じていた。 それから5年間、定期的に診察に通っていた。楽観的な態度をとりつづけたが、何かわけのわからないものが水面下からわきあがってくるような不安を感じ始めていた。正確にそれがいつからだったか思い出せないが、左胸の瘢痕部にできた固いかたまりに気づくようになったからである。そこはドレナージ管が挿入されていたところだった。しかし、定期診察のたびにこのことを医師に告げたが、医師は瘢痕が少し余分に厚くなっただけのことだから心配することはないと言うだけだった。私はこの説明に納得していた。私は、ブリストル食事療法を厳格に守って健康的な生活をしていたから、このかたまりががんなどとは思いもしなかったのである。 しかし、がんだった。 1992年の定期診察のあとでかたまりの大きさを測ってグラフにつけた。そのかたまりが大きくなっているかどうか知りたかったのである。消えない黒インクで印をつけ、消えかけるとつけ足した。そして古生物学者が化石を測定するときに使うはさみ尺でかたまりの大きさを測った。 1993年の初めにチャリング・クロス病院で診察を受けたときにこのグラフを持っていった。1年間に2ミリほどかたまりが大きくなっていた。診察に当たった若い女性医師にグラフを示したところ、医師は針生検を行った。数日のうちに病院に呼び出され、かたまりは切除された。 それから2週間後、私は再び、瘢痕部にがんらしいかたまりができているのに気づいた。これで私は3回、自分の乳がんを発見したことになる。 再々発した腫瘤を取り除いてから、1987年の手術のあとで行われたようないろいろな検査が行われた。がんが広がっている様子はなかった。一連の放射線療法を勧められ、承諾した。「これで私のきのこ畑もきれいになるわね」と医師に語ったものだった。 私の放射線療法の担当となった医師は優秀で、しかも実に細かいことにまで気をつかってくれた。彼は、私に起こったことを詳しく説明し、私のどんな質問にも辛抱強く応えてくれた。私はいっぺんに彼に信頼感を抱いた。結局、私は、線形加速器(Linear Accelerator)から出る強力な放射線を照射されることになった。 本格的な治療の前に、放射線が入る角度と深度を決める必要があった。放射線治療室は、ジェイムス・ボンドの映画に出てくるようなハイテク室であった。放射線技師が抑制のきいた親切な態度で応対してくれたから、恐怖感を感ずることはなかった。照射部位に小さな黒いイレズミが入れられた。この印は今でも残っている。これがそうだと示さなければ誰も気がつかないほどに薄くなっているが。放射線で肺組織がひどく傷つくこと、この治療で肺機能の15%が失われるという説明を受けた。 ほぼ1週間後に治療が始まった。受付を済ませてから、待合室で他の患者とちょっとおしゃべりをし、更衣室で照射部位にあたるものはすべて脱いで白い上っ張りに着替え、治療室に案内された。横たわると左乳房があった部分に生食水の入ったバッグが置かれた。私が乳房全摘の替わりに乳房温存療法(腫瘤摘出+放射線療法)を受けていたら、バッグの替わりに私の乳房があったのだと思った。放射線が照射される間、技師は室外に出ていたが、「大丈夫ですよ、うまくいっています」と親切に語り続けてくれた。放射線照射はいつも3方向から行われた。効率よく胸壁のがん細胞を照射して、肺への照射を最小にするためだった。 治療は最初、何の変化ももたらさなかったが、そのうち次第に照射された部分がひどく日焼けしたように見え、そのようにも感じるようになった。放射線の照射を受けた部分を陽に当てないようにと注意された。今でも太陽の光が胸部に当たると照射された部位の縁が現れる。代替医療を行っている人たちは、照射後の痛みを緩和するいろいろな方法が提案している。しかし、それがたとえハーブ製剤であっても、そのような薬剤はすべていくばくかの保存剤か何かが含まれている。私はこのような物質は自分の症状を悪化させるだけだと考えて使わなかった。私はいかなるクリームも飲み薬も使わず、ただただ食事療法に固執し(このときはまだ依然としてブリストルの食事)、宇宙飛行士が宇宙放射線を早く追い出すために服用しているピルに含まれている成分の摂取量を増やすように心がけた。身体を洗うときには簡単な石鹸を用いたが、照射部位はゆるやかなシャワーの水だけで洗った。チャリング・クロス病院の医師は、私の皮膚の状態がよく、照射の影響が早く消えたことを喜んでくれた。 7.乳がん再々発、放射線による卵巣摘除 放射線治療を受けている間、血液検査で照射が続けられるかどうかチェックされた。照射装置も定期的に点検を受けていた。点検不十分な装置は危険だから、このことは非常に重要なことだ。私は7週間かけて35回の放射線照射を受けた。最後の治療のあとで、全身の詳しい検査が行われた。さらに6週間後にも同様の検査を受けて、私の身体にはがん細胞がなくなったと言われた。全身に安堵感と幸福感があふれ、お祝いの昼食を友人ととった。今度こそ、がんをやっつけてやった! それから6週間ぐらい経った7月の第二金曜日の朝、研究所で年長の同僚の一人とおしゃべりをしていたときに、何気なく頸部の鎖骨の上に手をやった。 手に触れるものがあった。小さなしこりで、それがリンパ腺であることは分かっていた。がんがまた襲ったのだとすぐ悟った。 その瞬間どう感じたか言葉にすることはできない。ホラー映画で超自然的な悪魔がよみがえってはまた襲いかかってくる場面がある。私が感じたのはそれ以上の恐怖だった。なんでこの怪物は放っておいてくれないのだ。闘った、そして打ち負かしたのだ。だがまたやってきた。まだ足りないのか? これは間違いなくがんだ。死ぬまで放してくれないのか。 私はただちに放射線治療医の秘書に電話した。彼は30分たたないうちに電話してきて、照射装置が空いていないので今は何もすることはできないと言った。次の火曜日の午後に診察を受けることになった。医師は、私の鎖骨上のリンパ腺の腫脹を診て乳がん転移を確信したと思うが、また針生検で病理検査が行われた。彼は、たとえ乳がんのリンパ腺転移であってもまだ治療方法があると安心させようとした。私にはそうは思えなかった。 小手術だったから、リンパ腺はチャリング・クロス病院の日帰り手術で摘出された。このときは精神的にまいって無力感にさいなまれていた。 自分が乳がんの発生・再発に気づいたのはこれで4回目であった。今度はタモキシフェン治療を勧められた。タモキシフェンは子宮体部がんのような他の部位のがんを誘発することを知っていたので、この治療は受けたくなかった。さらに私はタモキシフェン治療を受けてその不快な副作用に耐えながらも結局のところ乳がんで死んでしまった何人もの患者を知っていた。タモキシフェンに効果があるといってもそれは統計学上の話だ。このようなときに私たちが反応するのは統計学の数字より事態の捉え方である。エストロジェンの体内分泌を抑えるために、卵巣に放射線を照射して、その機能を止めるという治療の選択肢もあると言われた。私は、放射線による卵巣摘除術(放射線照射によって人工的に更年期状態をつくりだし、女性ホルモンの分泌を抑える)を受けることにした。 胸部の放射線照射より卵巣への照射の方が不安だった。こんなに急いで更年期を迎えてしまっていいのだろうか。そんなことをしたら、もっと歳とって見えるようになるのではないか。皮膚はかさかさして頭髪は灰色になり、骨は脆くなってしまうのではないか。欧米の女性は更年期を過ぎると体型が変わる。胴回りが太くなっていわゆる中年太りになってしまう。ホルモン分泌の低下で、脂肪がお尻やおっぱいにいかずにお腹や腰にたまるから、更年期を過ぎた女性は女性らしい体つきを失ってしまうのだ。 卵巣への放射線照射を受けてから、顔のほてりを感ずることはあったが、新しい食事(あとで述べる)を始めてからはそれもなくなった。私の身体は更年期を過ぎた女性のようには見えなかったと思う。私がそう思うのは、同僚の女性からタンポンを持っていたら貸してくれないかとよく頼まれたし、子宮がん検診とか診察では看護師や医師がいつも月経のことを訊ねたからだ。私の髪の毛、皮膚、爪の状態は実際のところ前よりきれいになったし、私の体型は20年前と変わらなかった。あとで述べるような食事に変えたことが私を若返らせたと確信している(ヒント:東洋の女性は西洋人よりずっと長く若さを保っている)。 鎖骨上リンパ腺を摘出してから2週間後に、抜糸のためにチャリング・クロス病院に行った。外科医は、リンパ腺腫脹が乳がん転移であったことを告げたあとで、診察室で鏡を見てみないかと言った。「見事な手術だと思いませんか」と医師は言った。たしかに、手術の痕はほとんど見えなかった。しかし私は彼の技術を褒める気にはならなかった。というよりは彼の思いやりの無さにほとんど激怒した。彼は、私がまたもやがんが転移していたことを知って打ちのめされでいることに気付いていなかったのである。しかし私は、気を取り直して、醜い傷痕を残すことになったかもしれない頸部の手術なのに美容を考慮して見事に行ってくれたことに感謝した。今思い返して見れば、彼は私に親切にしようと思っただけなのだ。医師は、もう一度詳しく診察してからもうがんはどこにもないと宣言した。 その通りだ。がんは消えた。がん細胞は一つ残らず根絶されたのだ。しかも乳がんの最大のリスク要因であるエストロジェンも少なくなった。 ところがそうではなかった。抜糸してから2週間、卵巣に放射線照射を受けてから数日後に、頸部の手術痕に大きな、痒い腫れ物が出現したではないか。しこりそのものは痛まなかったが、その周りに痛みがあった。この腫れ物は小さな鶏卵の半分ぐらいの大きさで頚の付け根にできていた。最初は感染でも起こしたのかと思った。そこで担当の放射線治療医の診察を受けることにした。診察してから、彼はこれ以上に優しくはなれないという言い方で「これはがんです」と告げた。私は不吉な予感に圧倒された。もうだめだ。あきらめるほかない。間もなく死ぬのだ。何でこんなことになったのだ。 わけもなく映画「明日に向かって撃て!(原題:Butch Cassidy and the Sundance Kid)を想いだした。二人のアウトローが武装集団に追われている。どこへ逃げても追いかけてくる。その攻撃は情け容赦もない。逃げ場はない。私の状態もそんなものだった。どんなに闘ってもがん細胞はしぶとく私の命を狙って追いかけてくる。逃げ場がない。 この段階でも放射線治療医は素晴らしかった。私を元気づけ、長い時間をかけて化学療法を受けることを勧めてくれた。私は化学療法を受ける気持ちになれなかった。しかし最後には、家族と過ごす時間が少しでも長くなるというなら、試してみる価値はあるという気になった。彼は3日後に治療が始められるよう調整してくれた。 8.抗がん剤治療を受けた! チャリング・クロス病院は、がんの化学療法が卓越していることで有名だった。私の治療計画は6ヶ月に12回行うというものだった。2週連続で木曜日に抗がん剤の点滴注射を受け、ほぼ3週間休んでまた始めるという計画だった。チャリング・クロス病院での治療はきわめて順調に行われた。治療スタッフは私の不安と苦痛を軽減するためには何でもしてくれた。それでも現実は冷厳であった。私は、もしも自分に何かあったら子どもら将来のために準備しておきたいから、どのくらいの時間が残されているのか正直に教えてほしいと頼んだ。私に残された時間はおそらく3ヶ月、運がよくて6ヶ月ということであった! 治療を受ける日には抗がん剤注射の前に体重を計り、尿と血液の検査を受ける。赤血球と白血球が治療に耐えられないほどに低下していないことを確かめるのだ。検査結果が出てから医師の診察を受ける。診察結果をもとに医師が抗がん剤を処方する。スタッフはみな忙しいから自分自身で薬剤部に行って抗がん剤を受け取る。これは非常に大切なことだ。薬剤部はたくさんの人々が出入りする大きな部屋で、いろいろな種類のがんに処方されるさまざまな抗がん剤が調剤されている。私の場合にはまずメトトレキサートが注射され、続いてフルオロウラシルとシクロホスファミドの点滴が手背の静脈を通して行われた。 抗がん剤治療の不快感から逃れる術(すべ)はなかった。病院を出て4-5時間すると、猛烈に気分が悪くなって吐いた。胃の中が空になってもまだ吐いた。しかし、鎮吐剤がアンドンセトロンに変わってから、吐き気がずっと少なくなり、注射が終わると2日以内に仕事に戻れるようになった。 私の治療が終わらないうちに、びっくりするような出来事があった。ある日、乳がんの友人の抗がん剤治療に付き添ってある病院に行った。その病院の医師は治療前の検査結果をコンピューターに入力した(身長と体重で薬剤量が決まる)。薬剤部に行って、医師が処方したくすりを薬剤師から受け取った。私はすぐラベルを読んだ(これは私の習い性となっている)。彼女の体重が少し減ったので、くすりの量もわずかに減るはずだったのに、くすりが前の治療のときの2倍になっていた。処置室で「ちょっと変だと思うから、使う前にくすりの量をよく調べてください」と薬剤を看護長に渡した。それから1時間ぐらいして看護長に会った。このことで病院を訴えるようなことはしないと約束したら、看護長は、医師が誤って2倍のくすりを処方してしまったことを認めた。医師の話を聞いて真相が明らかになった。彼は、コンピューターの身長の記入欄に、体重を入力していたのだった。もし友人が間違った量の抗がん剤治療を受けたらどうなったかと訊ねたところ、肝臓あるいは腎臓の機能不全を起こして死を招いたかもしれないと聞かされた。 私はこの若い医師を非難しなかったし、今でも責めるつもりはない。乳がんクリニックの医師は信じられないほどの重圧を受けながら働いている。病院は医療ミスを防ぐシステムを整備すべきだ。たとえば、入力ミスに対して、コンピュータが警告を発して投与量を計算しないようなプログラムを用意すべきである。たった3週間の間に身長が1メートルも伸びる人間なんていないのだから! 病院はもっと情報管理を徹底すべきだ。私はこの病院の管理部門に私の友人に起こったことを書き送った。 私の頚部の腫瘤は治療の初期には消えていたが、治療は計画通り続けた方がよいと言われた。私は言われた通りにした。気分が悪くなることを除くと治療の副作用は、風邪を引いて喉の痛くなることが多くなったこと(これは生ニンニクで治した)と爪の根元が感染で腫れること(温かい塩水につけることでよくなった)が多くなったぐらいであった。いずれも抗がん剤治療で免疫力が落ちために起こったと思っている。その他に歯肉の化膿が数箇所で起こった。歯科医に私が抗がん剤治療を受けていることをよく説明したから、歯科医は注意深く治療にあたった。鎮吐剤アンドンセトロンのために便秘になり痔ができたが、亜麻仁油でよくなった。 私のがんに対する考えが大転回したのは頸部にがんが現れてからであった。がんは消えた。再発はなくなった。うれしいことに髪の毛が抜けなかった。実際、髪の毛は治療前よりも色が濃くなり増えたのである。私は、これは食事を新しいものに変えたためだと思っている。抗がん剤治療を受けた乳がん患者で私が勧める食事にした人には誰にも脱毛は起こらなかった。美容師は最初、ブラシを使うと髪の毛がごっそり抜け落ちてしまうのではないかと心配したが、私の好みの髪型にするためにふさふさした髪をブリーチして梳かなければならなかった。今では美容師は、お馴染みが抗がん剤治療を受けるようになったときには私の食事療法のレシピを手渡している。 抗がん剤治療を勧めた放射線治療担当医は、再発がんが消えたことを喜んでくれたが、抗がん剤治療が終わればまた現れるのではないかと心配した。しかし、がんが現れることはなかった。最後のがんが消えてから6年になるが、がんは二度と再発することはなかった。医学書を読んでみると、私に処方された抗がん剤はその当時最も安価な標準的なもので、この抗がん剤によって私のがんが消えたとは考えられない。がんが消えてから2年後に、チャリング・クロス病院はもっと進歩した化学療法を行うことを提案してくれた。医師は、私が治療に前向きだったこと、予想を超えて生存していることから、できるだけのことをしようと思ったのだろう。しかし、私は断った。がんが治ったのは抗がん剤治療によるものではないことが私にはわかっていたからである。 乳がん治療を受ける人のために 診断に関して 手術 放射線治療 化学療法 9.三番目のイチゴを探す 何年も前に多発性硬化症(MS)を専門とするアメリカの医師と共同研究を行ったことがある。彼と私の共同研究は、多発性硬化症の発生が非常に多いオークニー諸島とスコットランド北部でこの病気の環境要因を探ることだった。そのとき、彼はこの病気を「スロットマシン病」と表現した。最初にこの言葉を聞いたとき、奇妙に感じたから、どういうことかと訊ねた。「ラスベガスにいると思ってください」と彼は答えた。「いま、あなたはスロットマシンで遊んでいます。イチゴが一つ出ました。これは大したことではありませんね。イチゴが二つ並びました。これもそんなに驚くようなことではありません。だけど、もし三つ並んだら、これはまさに大当たりだ、めったにあることではない。」 彼が言いたかったのはこういうことだ。多発性硬化症は、三つの因子がそろったときにだけ発症するものとする(彼は紙に二つのイチゴと一つのレモンを描いてみせた)。二つの因子がそろっただけでは何の症状も現れない。だけどイチゴが三つそろったら、多発性硬化症が発生する。この医師は、この病気の発生因子の一つは遺伝的素因、二つ目はある種の感染(この当時はスローウィルス感染説に人気が集まっていた)、そして三つ目は環境あるいは生活習慣だと考えていた。 がんも多発性硬化症と同様に、多くの因子が組み合わさって段階的に発生する病気である。この考えが私にかすかな希望を与えてくれた。乳がんを引き起こした原因が何であるか分かったところで(それはもうずっと前のことだ)、今さらどうしようもないが、今、私の身体の中で乳がん細胞を増殖させている原因がわかれば、乳がんに対処することができる。 乳がんは、いろいろな人に、それぞれ異なった速度で増殖・成長している。遺伝であればどうしようもないが、環境要因が乳がん細胞の増殖を左右しているのであればどうにかなるのではないか。このように考えれば、がんの増殖が長期間にわたって止まってしまう人がいたり、再発しない人がいることが理解できる。私の乳がん細胞の分裂を誘発しているものを探し出さなければならない。自分の乳がんを克服するために、三番目のイチゴを探さなければならなかった。 私は研究者だ。これから、私の生涯で最も重要な研究に取り掛かるのだ。命懸けの研究だ。うまくいけば、命を取り戻すことができる。うまくいかなければ、これが最後の研究となる。私は生き延びるために自分自身で道を探すよりなかった。私は、自然科学者としての知識と技術を総動員して自分の乳がんを観察した。 このときに私に非常に有利に働いたことについてお話しておこう。私は、地球環境の研究者として、岩石、化石、火山、地震などの自然現象の観察を通じて地球の成り立ちを考えてきた。私たちのような地球化学の研究者は生物学や医学の研究者とは考え方が少し違う。一定条件のもとで試験管の中で起こる出来事を調べる生物医学とは違って、私たちは数十億年にも亘って地球に起こった厖大な出来事を扱っているのだ。観察とデータの解析はお手の物である。 今ではほぼ完全な支持を集めているチャールス・ダーウィンの進化論、アルフレッド・ウェグナーの大陸移動説、ディグビー・マクラーレンとジーン・シューメーカーの巨大隕石衝突による生物大量絶滅説などは最初はみんな哄笑されたものだ。 今まで世界中で、がん研究に巨額の資金が投入されたにもかかわらず、死亡者は多少減ったが、がんにかかる人は増え続けているではないか。医師は患者を救おうと治療に献身しているが、その方法は20年前とそんなに大きく変わるところはない。ほかの科学の分野だったら、こんなに金をかけながらこんなにわずかな成果しかあげられない研究はとうの昔に打ち切られていただろう。がんの分類とそのステージから私の余命を3ヶ月から6ヶ月と予想するような正統派医学の慣行を打ち破りたい。私は、自然科学の研究者として、乳がんを自然現象の一つとして研究し直すことにした。 10.私は何が原因で乳がんになったのか その頃、分かっていたのは、1)遺伝素因、2)エストロジェン曝露の総量、3)動物性脂肪の摂取量、4)性格とストレス、が乳がんの発生に関係しているということであった。だからまずこの四つの要因を調べなければならない。しかし時間は迫っている。急いでそれぞれの要因がどのくらい自分に当てはまるかどうか調べた。 1)遺伝素因 2)エストロジェン 女性の身体で自然に分泌されるエストロジェン自体が乳がん発生の主たる原因などとは、私にはとても思えなかった。自然に分泌されるホルモンが原因なら、妊娠中にエストロジェンが増えるのに、どうして妊娠した女性は乳がんにならないのか。実際は、歳をとった女性ほど(ということはエストロジェン分泌が少なくなるほど)乳がんになりやすくなっているではないか。なぜ、閉経のずっとあとになって、エストロジェン分泌が非常に少なくなった時期に乳がんが発生するのか。ホルモン補充療法のためか。いや、ホルモン補充療法が開発される前にだって多くの閉経後の女性に乳がんが発生していた。地球化学の研究者としての私には、エストロジェンによって乳がんが発生するのは、他のもっと根本的な要因が加わったときだけであるように思えた。私はこのことについてもっと詳しく調べてみることにした。これについてはあとで述べる。 3)脂肪摂取量 4)性格とストレス 11.獲物は近くにいる(The Game’s
Afoot) たとえ時間に追われて苦しくても、科学の探求には楽しいことがある。このとき私は抗がん剤治療を受けていたから、ときには死ぬほど気分が悪くなることもあった。しかし、生き延びるために自分のありったけの能力を使い始めたときにはこの探求のスリルを味わっていた。しかし、どこを探したよいのかまだ分からなかった。でも、獲物は近くにいたのだ。 科学の成果は、論理的かつ冷静に長い時間をかけて一心不乱に研究して得られるものだと考えられている。しかし、どんなに時間をかけて研究しても、ちょっぴり幸運に恵まれなければ大発見は生まれない。その幸運が私を訪れたのだった。 乳がんの原因に関する最初の手がかりが得られたのは、夫のピーターが中国での研究から帰ったときだった。このとき私は、抗がん剤治療を受けている最中だった。彼は中国の友人や仕事仲間から贈られた見舞の手紙や漢方の座薬を持ち帰った。この座薬は、それまでにも乳がん治療のために私宛に贈られていた。現在でもその成分は分からないが、まるでロケットの花火のようだった。大変な時期だったが、二人で腹を抱えて笑った。「中国人はあまり乳がんにならないから、中国ではこのような座薬が乳がん治療に使われているのね!」と言って笑ったのである。 「中国人は乳がんにならない」という言葉が頭の中を駆け巡った。なぜ、中国人は乳がんにならないのか? 私が乳がんになる数年前に、中国の仕事仲間からもらった「中華人民共和国におけるがん死亡率図譜」が頭にひらめいた。そのとき私は、土壌成分と病気の関係を調べるために、英国と中国の間でケシャン病(訳者:克山病、中国の北東部から南西部にかけてみられる心筋症を主とする疾患。黒竜江省克山県で多発したためにこの病名がついた)とセレンに関する共同研究を推進中であった。ケシャン病は現在、セレン欠乏によって起こるという説が受け入れられている。 最初、西洋の医師や科学者は、中国人科学者によるこの研究結果を強く疑問視していた。スコットランドの有名な研究所が、セレン欠乏食によって実験動物がケシャン病になることを確かめて始めて、中国人研究者のセレン欠乏説が受け入れられるようになった。どこも同じようなものだが、科学の世界も狂信的なほどに排外的で、「外国人」の研究結果を認めようとしない。私はこれをRaffy症候群(Refuse to Accept Foreign Facts Yet=外国研究否認病)と呼んでいる。 最近、私の研究機関と中国人研究者が共同で、セレンの欠乏している土壌を改善する方法を開発した結果、ケシャン病の発生と死亡が大幅に減った。また、軟骨の変性によって骨の一部が異常に大きくなるカシンーベック病(訳者:変形性骨軟骨関節症。カシンーベックという病名は発見者のカシン及びベックに由来する)も穀物中のセレンとヨウ素が少ないことが原因であることが理解されつつある。病気の真の原因が環境にあるという根本問題が理解されなければ、西洋医学はほとんど役立たないということを再度ここで強調しておきたい。 「中華人民共和国におけるがん死亡率図譜」を眺めて最初にびっくりしたのは、中国全域を通じて乳がんが驚くほど少ないということであった。中国全体の乳がん死亡率は1万人に1人であった。この死亡率は、多くの西欧諸国における10人に1人という数字に比べて、極めて低いものであった。しかし、違う国のデータをこのように単純に比べることができないのは当然である。まず、オックスフォード大学教授のリチャード・ドール卿(喫煙と肺がんの関係を初めて確認した研究者)が指摘するように、年齢構成を考慮しなくてはならない。たとえば、乳がんや前立腺がんのように主として中年から高年にかけて多いがんだったら、若年者が多い国では、高齢者が多い国に比べて死亡率が低くなるのは当然である。そのため、疫学者は、年齢構成が異なる国々の比較ができるように、年令調整死亡率を計算している。しかし、この年令調整死亡率を用いても、中国や日本の乳がんと前立腺がんの死亡率はイングランド、ウェールズ、スコットランドに比べて非常に低い。 死亡率ではなく発生率をみると、中国の啓東地方の女性は10万人のうち11人しか乳がんにならない(前立腺がんの発生率はさらに低く10万人対わずか0・5人である!)。しかし中国でも、都会(上海と天津)の乳がん発生率は地方(啓東)の2倍となる。私は最初、都会に乳がんが多いのは都市部の深刻な環境汚染によるものではないかと考えていた。 都市化がさらに進んでいる香港では、乳がんの発生率が3倍(10万人中34人)に跳ね上がる。広島と長崎の発生率も香港と同列である。この日本の両都市は、都市化に伴う環境汚染に加えて、原爆の被害を受けている。広島と長崎には放射線の影響もあるのではないかと考えるひともいるだろう。しかし、私の統計資料の見方は違う。私たちが今調べている資料は単なる実験結果ではない。実際にこの世で人間に起こったことを問題にしているのだ。これらの資料を注意深く検討してその意味するところを汲み取るのが科学者の仕事である。これらの資料を検討して私が到達した結論はみなさんに衝撃を与えるかもしれない。私の結論は「環境汚染とも都市化とも関係のないある種の生活習慣が西洋人の乳がんを増やしている」というものであった。 乳がんと前立腺がんの発生率は西洋と東洋で大きく異なる。どうしてこんなに違うのか。遺伝(人種)の違いによるものではない。移民研究によれば、中国人や日本人が西洋に移住すると、1-2世代のうちに乳がんや前立腺がんの発生率と死亡率が西洋人と変わらなくなってしまう*。さらに、香港で西洋人の生活様式をを採り入れた中国人、あるいはマレーシアやシンガポールで西洋式生活を送る豊かな中国人の乳がんや前立腺がんの発生率が西洋人の発生率に近づいていることが知られている。 中国では乳がんは俗に「Rich Woman’s Disease=金持ち女の病気」と呼ばれている。これは、中国では金持ちだけが「香港食」を手に入れることができたからである。その頃の中国人は、アイスクリーム・チョコレートからスパゲッテイ・フェタチーズまで西洋風の食品をすべて「香港食」と呼んでいた。というのはこれらの食品は当時イギリスの植民地であった香港でしか手に入らなかったからである。このことから見ても、乳がんや前立腺がんは遺伝要因によるものではなく環境要因によるものであると言うことができる。そうだとすれば、これらの病気は予防可能である。 乳がんと前立腺がんが日本に少ない(最近は増えている)という事実は極めて重要である。日本はイギリスや他の西欧諸国並みあるいはそれ以上に工業化した。実際、重金属による深刻な公害疾患が1950年代に発生した。たとえば、水俣病はメチル水銀で汚染された魚介類を食べることによって起こったし、イタイイタイ病はカドミウムで汚染された食品が原因であると言われている。しかも、1945年に、日本は原爆攻撃を受けた。それ以来、科学者は広島と長崎で核爆弾とがんの関係を詳細に研究を続けてきた。しかし、この二つの地域の乳がんと前立腺がんの発生率は日本の他の都市とほぼ同じである。 現在の日本の環境は多くの面で欧米の工業国と似ている。それにもかかわらず、日本の乳がん死亡率はイギリスに比べて著しく低い。このことは、両国の間に乳がんの発生に関して根本的な違いがあることを示している。だから、探し求めている三つ目のイチゴ(生活関連要因)が、東洋と西洋の間に昔からあった文化の違いにあると考えるのはいい線をいっている。獲物はすぐそこにいる! 12.天啓の鐘が鳴る それから2週間ぐらい、1983-84年に中国全土で行われた「栄養、環境と健康」に関する中国―コーネル大学ーオックスフォード大学の共同研究を詳しく検討した。この共同研究が中国で行われたのは、中国は生活環境や食習慣が異なる膨大な人口を抱えているから、食事と健康の関係を調査するのに最適なフィールドであったからである。 この中国研究で、中国人はアメリカ人より多量のエネルギーを摂取しているのに、中国にはアメリカに比べて肥満者がずっと少ないということが明らかになった。これは、一つは中国人の身体活動量が多いこと、二つ目は食べているものがまるっきり違っているからであった。調査時には、中国人の平均的食事の脂肪含有量はカロリー比でわずか14%で、西洋人の食事の36%に比べて圧倒的に少なかった。 中国人の食事は低脂肪食である。しかし、私も同じであった。乳がんになる前の私の食事は、脂肪が少なく繊維の多い食事だった。かつては、乳がんを脂肪の摂取量と結びつける研究者がいた。しかし今では、大規模の疫学研究でも、脂肪摂取量と乳がんの関係を示す証拠は得られていない。 ピーターと私は、中国や日本に乳がんが少ないのは、彼らがたくさんの大豆を食べるからだという学説について議論した。大豆に含まれている成分が女性を乳がんから守っているという説である。大豆は数千年以上にわたって中国人のタンパク質源であった。大豆から作られる食品は、豆乳、豆腐、醤油など種類が非常に多い。大豆が発芽したもやしを食べることもある。 大豆が乳がんの発生を抑制する物質を含んでいるという証拠はたっぷりある。とくに、女性ホルモンに構造が似ている植物エストロジェン(ファイトエストロジェン)が大豆に豊富に含まれていて、これが乳がんの予防に役立つと考えられている。この物質が乳腺細胞あるいは乳がん細胞のエストロジェン受容体と先に結合して、本物のエストロジェンの結合を妨げるために乳がんを予防すると言われている。その作用は、乳がんの治療に用いられるタモキシフェンの作用に似ている。さらに、ほとんどのマメ科の植物に含まれているイソフラボンというファイトエストロジェンには強力な抗酸化作用がある。この抗酸化作用も大豆による乳がんの予防に関係していると言われている。また、大豆のイソフラボンの一つであるジェニスタイン(genistein)には血管新生を抑える作用もあり、これも抗がん作用の一つに数えられている。大豆を含む飼料をラットに与えると、乳がんの発生が抑えられるという研究報告もある。中東のフムスに使われるヒヨコマメ、メキシコをはじめ中央アメリカや南アメリカで主要食品となっているインゲン豆にもイソフラボンが含まれている。これらの地域の乳がんは西欧より少ないが、日本や中国ほどには低くない。 遺伝子組み換えでなく有機栽培された大豆はすばらしいタンパク質源であるから、私も自分の食事に取り入れている。大豆にはその他にも幾多の利点があるが、とくに更年期の女性にとって利点が大きい。しかし、あの頃、私はすでにいろいろな献立に大豆を使っていたから(たとえば豆腐)、大豆が私の探し求めている「第三のイチゴ」であるとは信じられなかった。 それからさらに2週間ぐらい経ったある日、ピーターが言ったのか私が先に言ったのかわからないが、「中国人は乳製品を食べない!」。このときの私をおそった感覚を言葉でほかの人に説明するのは難しい。バラバラになっていたジグソーパズルのたくさんのピースが一挙におさまるべきところにおさまって絵が完成するような感じだった。このような不思議な感覚は私の研究歴の中で何回もあった。最初は、おかしい、あり得ないなどと言われたが、この感覚を伴った着想はあとになって常に正しいことが証明された。獲物を捕まえた! 真犯人は牛乳だったのだ! そういえば、私が共同研究を行った中国の研究者はいつも「ミルクは子どもが飲むものだ」と言っていた。中国系の親しい友人は、夕食のデザートに出されるチーズをいつも丁寧に断った。伝統的な中国風の生活を送っている人で、赤ちゃんに牛乳や乳製品を与えている中国人は一人もいなかった。乳母を雇うことはあっても赤ちゃんに牛乳・乳製品を与えるなどということは中国の伝統にはなかったのだ。 中国人は、私たち西洋人の牛乳・乳製品に対する思い入れを非常に奇妙なことだと思っているようだ。文化大革命の終わった直後の1980年代に、中国から多数の科学者がやってきて歓迎の宴が開かれた。外務省のアドバイスで、アイスクリームのたっぷり入ったプディングを用意するように宴会業者に頼んだ。中国人はこのプディングを見て「これは何で作ったのか」と訊ねた。原料が牛乳だとわかると、通訳も含めて中国人はすべて、丁寧にしかし断固としてプディングを食べなかった。「おいしいですよ」と勧めても、その気持ちを変えることはできなかった。おかげで、私たちはプディングをたっぷり食べることができて大喜びだった。 つい最近、北京で開かれたある国際会議に出席した際に、二人の年上の女性科学者と昼食をとった。ニンニクと香辛料の匂いを強く漂わせて一人の男性が近くを通った。私はその匂いに反応したようだ。一人が笑いながら「中国人はどんな匂いがしますか?」と恥ずかしそうに訊ねた。注意深く答えを探して正直に「別に、特別どうということはありません」と答え、お返しに訊ねた。「私たち西洋人はあなたがたにはどう匂うのでしょうか」。二人とも笑った。これは中国人が当惑したときに見せる反応だ。私が返答を促したので、彼らはとうとう「すっぱい牛乳の匂いです」と答えた。 自然療法よると、ある病気の原因に関する手がかりは病に冒された身体の部分から得られるという。たとえば、肺がんはたばこの煙や放射性の煙霧、アスベストなどが肺に入ることが原因となる。皮膚がんは大量の紫外線が皮膚にあたって起こる。子宮頚部がんは性交渉によってうつるパピローマ・ウィルスが原因である。同様に、動物の乳房から出るミルクという強力な液体が私の乳房に何か悪い信号を送ったのだ。 私は牛乳・乳製品の愛好者だった。身体によいと信じていたからである。乳がんになる前には、低脂肪牛乳を大量に飲んだし、たくさんの乳製品を食べた。料理に脱脂粉乳を使ったし、低脂肪チーズとヨーグルトもよく食べた。牛乳・乳製品は私の主要なタンパク質源だった。それに安価で脂肪の少ないひき肉を使ってハンバーグやスパゲッティ・ボロネーゼを作って子どもたちとよく食べた。今にして思えば、この安いひき肉は乳牛の肉であった! 乳がんと診断されたあとでも頚部リンパ腺(鎖骨上リンパ腺)に乳がんが転移するまで(最後の再発)まで、ブリストル食事療法が許容していたから、私はヨーグルトを食べ、沸かした脱脂乳を飲んでいた。ブリストル療法はインド風のギー(透明なバター)を料理に使うことを勧めているし、サラダドレッシングの中にはヨーグルトをたくさん使うレシピもあった。私は注意深く食品ラベルを見て「生きた乳酸菌」「有機」と書かれているヨーグルトだけを選んで購入していたが、ときには自分で牛乳から作ることもあった。乳がんになっても最初の頃は、自分の消化管に善玉細菌といわれる乳酸菌を増やすために、有機ヨーグルトを積極的に食べるようにしていたのである。 しかし、乳がんの真犯人に気付いてから、私は一切の牛乳・乳製品を直ちに止めることにした。チーズ、バター、ヨーグルトとそのほかの乳製品を含む食品を全て流しとごみ容器に捨てた。出来上がりのスープ、ビスケット、ケーキなどいかにたくさんの食品が牛乳・乳製品を材料として含んでいるかを知って改めてびっくりした。大豆油、サンフラワー油、オリーブ油から作られたマーガリンですら乳製品を含んでいるものもあった。そんなわけで小さな文字で印刷されている食品ラベルを目を凝らして読むようになった。 最近(1989年)になって、ヨーグルトが卵巣がんの原因ではないかという論文が出ていることを発見した*。ハーバード大学のクレイマー博士が卵巣がんになった人とそうでない人の食事を比較したところ、卵巣がんの女性がそうでない女性に比べて多く摂っている食品が一つあった。それは乳製品であった。乳製品のなかでもとくに、健康的と言われているヨーグルトの摂取量が多かった。クレイマー博士は、その原因は牛乳に含まれている乳糖の分解産物のガラクトースであると推定している。ガラクトース分解酵素の少ない女性では血液中にガラクトースが増えて卵巣に障害を起こすという。このような女性が日常的に乳製品を食べていると卵巣がんになるリスクが3倍になるという。実際、ヨーグルトやカッテージ・チーズではその製造に使われる乳酸菌によってガラクトースが多くなっている。このことが牛乳による乳がん発生を説明できるのかどうかわからないが、この研究は私の観察と仮説を支えるものであった。 13.自然食品ミルクが健康に悪い? そこで私は乳製品を完全に避けることにした。数日のうちに腫瘤が退縮し始めた。二回目の抗がん剤治療が終わって2週間ほど経ち、乳製品を絶って1週間経つと、頚部の腫瘤が痒くなり、硬さが減った。グラフ上の線も下方に向かい、腫瘤がだんだん小さくなっていった。その線の下がり方は横軸に平行になるようなものではなく、直線的にゼロに向かっていた。このことは、私の乳がんが単に抑制されたとか緩和したとかいうのではなく、完全治癒に向かっていることを示すものであった。 乳製品を完全に絶ってから約6週間経ったある土曜日の午後、1時間ほど瞑想を行っていた。そのとき、腫瘤が残っているかどうか頚部に触れてみた。腫瘤は完全に消失していた。階下に降りていって、夫のピーターに頚部を触ってもらったが、彼も腫瘤らしきものは何も触れることはできなかった。次週の木曜日、チャリング・クロス病院でがん専門医の診察を受けた。彼は最初、困惑して頚部を触診していたが、「何もありませんね」といって喜んでくれた。ごく最近(1999年)この医師の診察を受けたとき、彼は、私が受けていた抗がん剤治療は過去20年間行われてきたのと同じごく基礎的なものだったと教えてくれた。どの医師も、乳がんが頚部リンパ腺に転移した段階で、抗がん剤治療で私が元気になることはもちろん生き延びるとは思っていなかった。 私が最初、この医師に「乳製品を止める」という考えを相談したときは、当然のことながら彼はその効果を疑った。しかし今では、彼は「中華人民共和国がん死亡率図譜」を講義に使い、自分の乳がん患者に乳製品を止めることを勧めている。 私は今、乳製品と乳がん(おそらく前立腺がんも同じ)の関係は、タバコと肺がんの関係と同じであると信じている。事実、疫学研究では乳がんと乳製品の関係は20年以上も前から報告されていたのである。たとえば、1970年には脂肪の摂取量が多くても乳製品の摂取量が少ない地域では乳がんの死亡が少ないという研究が報告されている*。乳・乳製品が多くなると、女性の乳がんリスクが高くなるという研究もあった。たとえば、日本では脂肪摂取量が少ないのに、乳・乳製品の摂取量が多くなるにしたがって乳がんの発生率が高くなっている**。 私は、乳製品を使わない食事を摂ることによって、自分の乳がんが治ったと信じている。最初は、あなた方と同様に私自身も、牛乳のような「自然」の産物が健康に悪いなどという考えを受け入れることはできなかった。しかし牛乳は本当に悪いのだ。 1980年代の中国人は、西洋人が大量の牛乳を飲んだり乳製品を食べたりするのを見て笑ったが、今でも西洋人の多くは牛乳なしに元気に過ごせる人間がいるなどということを理解できないようだ。これはつまるところ異文化理解の問題である。ほとんどの西欧社会では、牛乳は健康によい自然食品と考えられている。赤ん坊のいのちを支えている、骨粗鬆症になりやすい女性に必須である、激しい肉体労働をする労働者に必要なタンパク質がいっぱい含まれている、しなやかな細身のファッションモデルに最適の飲料である、などなど、牛乳はすべての人に素晴らしい食品だと考えられてきた。 しかし、これは巧みにつくり上げられた幻想である。離乳期を過ぎた哺乳動物はミルクを必要としない。人間は、離乳期後にもミルクを飲み続ける唯一の動物である。ウシという異種動物のミルクにこだわる私たち人間は奇妙だ。ウシのミルクがそんなによいものなら、ブタのミルクも飲むだろうか。ブタのミルクなんて気持ちが悪いだろう。それならウシのミルクも気持ちが悪いはずなのだが。 牛乳は子ウシ以外の動物が飲むようには造られていない。牛乳の成分は母乳成分と大きく異なっている。まず、牛乳のタンパク質は母乳より3倍も多く、カルシウムは母乳の4倍も多い。牛乳は、急速に生長する子ウシ(体重が1日に1kgも増える!)には完璧な飲み物であるが、人間の子どもには不適である。ましてや大人には害毒以外の何ものでもない。 多くの科学者が現在の西欧社会における乳製品の消費量は多過ぎると言っている。1992年のアメリカの統計によると、アメリカ人は平均すると一人当たり1日700グラムの乳製品を摂取するということだ。この乳製品は、牛乳、クリーム、アイスクリーム、アイスミルク、バター、チーズ、カッテージ・チーズ、ヨーグルトを含んでいる。アメリカ農務省によると、アメリカ人の食事の40%以上が乳製品で、食品摂取基準の2倍以上になるという。 ご存知のように、乳房は年齢とともに大きさと形が変わる。思春期に起こる変化は大きいが、乳房の大きさや固さは月経周期によっても変わるし、妊娠の経過や性的興奮によっても変わる。子どもを育てているときはそれなりの役割を果たしているが、それ以外のときには、ときとして、ただ大ききな痛い膨らみと感じることもある。とくに月経前にはそのように感じることが多い(月経前緊張症)。そればかりか、乳房があるために病気になることもある。その代表が命にもかかわる乳がんである。 乳房の大きさ、重さ、感じやすさ、さらにはその健康は、血液中を流れている微量の化学物質―ホルモンーの影響を受けている。思春期には、成長ホルモンがインスリン様成長因子1(IGF-1)の分泌を促し、その刺激によって乳房が大きくなる。妊娠すると胎盤からもホルモンが分泌され、出産後の乳児の哺育に備えて乳腺が発達する。この乳腺は増量するエストロジェンの影響を強く受けるようになる。妊娠して5-8週もすると、乳腺房と乳腺管の数と大きさが急激に増大するので、乳房は大きく重くなる。乳首に色素沈着が起こり乳房に静脈が浮き出るようになる。(訳者:すでに妊娠4ヵ月で泌乳の準備ができている。しかし、泌乳にはプロラクチンの作用が必須である。妊娠中はエストロジェンとプロジェステロンがプロラクチンの作用を抑制しているので泌乳しない。分娩後、エストロジェンとプロジェステロンが低下すると、この抑制作用が解けて乳汁分泌が起こる。) 化学的な情報メッセンジャーであるホルモンには哺乳動物の間で共通点が多い。ホルモンは、循環血液に存在して身体のいろいろな部位に情報を伝達する。ホルモンの作用は強力なので、その血液中濃度は非常に低い。したがってわずかな濃度変化で身体に非常に大きな影響をおよぼす。 出産すると、ミルクが分泌される。プロラクチン、オキシトチン、コルチゾル、インスリン、甲状腺ホルモン、副甲状腺ホルモンなどの相互作用でミルクの分泌が始まる。この中で、母乳分泌に重要な役割を果たすのはプロラクチンである。妊娠も授乳もしていない女性の血中プロラクチン濃度は10ng/ml程度であるが、授乳している女性の濃度は2-3倍になっている。 みなさんは、ミルクは純粋な白い液体で、ビタミン・ミネラルなどの栄養素をたくさん含んでいる健康的な飲み物だと考えておいでだろう。しかし、みなさんは驚くだろうが、ミルクは、新生児の特定の部位に働いてその部分の成長と発達を促すためにたくさんのホルモンやホルモン様物質を高濃度に含んでいる、生物活性の高い液体である。実際、ミルクを飲むことによって新生児の細胞分裂が促進される。このため、古来から、ミルクは「白い血液」とも言われてきた。 ミルクは、プロラクチン、オキシトチン、副腎と卵巣のステロイド、性腺刺激ホルモン放出ホルモン(Gn−RH)、成長ホルモン放出因子(GRF)、インスリン、ソマトスタチン、レラキシン、カルシトニン、ニューロテンシン、プロスタグランジンなどを母体の血液より高い濃度で含んでいる。母体の血中濃度より低い濃度で含まれているホルモンには、甲状腺刺激ホルモン(TRH)、甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン(TSH)、甲状腺ホルモン、エリスロポイエチン、ボンベシンなどがある。ミルクはさらに上皮増殖因子(EGF)、インスリン様成長因子-1(IGF-1)、神経発育因子(NGF)など多数の成長因子を含んでいる。その他にミルクは、乳児の免疫機能の発達に関与するものを含めて40種類以上もの酵素を含んでいる。 実際、ミルクは、母乳であれ牛乳であれ、親から新生児に伝えるべき数百種類もの化学物質を含んでいる。ミルクの構成成分は動物の種類によって大きく異なること以外に、親ごとに違うし、親が食べているものによって違い、哺乳の時間的経過によっても違い、乳房ごとにも違う。乳房によって分泌されるミルクが異なるということは、子どもの発育に会わせて成分の調節を行っているのかもしれない。要するにミルクは同種の動物の子どもの成長・発育に適うように精密に造られた非常に複雑な生化学的液体である。牛乳が悪い飲み物というわけではない。それはすばらしい飲み物である、ただし子牛にとって。ここに牛乳問題の本質がある。 今の酪農では、1頭当たりの牛乳生産量を上げるために、できるだけ少ない乳牛から大量の牛乳を搾るという不自然な集中酪農が主流になっている。そんなに搾ったら牛乳が余ってしまうが、それは酪農経営にとって問題ではない。人間の消費量を多くすれば済むからだ。たとえばアメリカでは、年率1・5-2%の安定的な生産量の増加があった。乳牛はできるだけ若年で妊娠させられ、出産後は早く妊娠するようにして出産と出産の間隔をできるだけ短縮する。しかも、生まれた子牛を早期に引き離して、人間用に搾乳する期間を長くする。搾乳量が減ると屠殺して肉にする。このように乳牛に無理な圧力をかけた結果の一つが乳房炎の増加である。したがって牛乳には多数の炎症に由来する細胞(主として白血球)が含まれている。EUの牛乳は1mlあたり40万個の細胞が許容されている。茶さじ一杯の牛乳が200万個の白血球を含んでいる。白血球があまり多くなると、牛乳の品質が落ちるから、酪農家は大量の抗生物質を使う。この抗生物質の大量使用が抗生物質への耐性菌増加を招いている。 14.乳製品が乳がんの原因となる確実な証拠 しかし、こんな個人的な体験だけでは十分な証拠とは言えないだろう。牛乳に含まれているたくさんの物質が哺乳動物の子どもの発育に重要な役割(たとえば細胞分裂の刺激)を果たしていることはすでに述べた。哺乳動物のミルクの存在理由は唯一つこの一点にあるということを忘れてはならない。だから次のような問いかけに意味があるのである。もし新生児の細胞分裂を刺激するようにデザインされた物質を成熟した動物に与えたらどうなるのか。 まず手始めに、先に述べたインスリン様成長因子(IGF-1)から考えてみる。インスリンとIGF-1はともに細胞を大きくする作用がある。インスリンの主たる作用は血液中に余分にある栄養分を細胞内に蓄えるという単純なものである。一方、IGF-1は細胞の分裂と増殖を起こし、その作用は細胞の分裂増殖が最も盛んなとき(乳児期と思春期)と、ところ(がん)に発揮されるという特徴がある。 1994年にウシの成長ホルモン(BGH)が遺伝子工学によって作られ販売されるようになった(米国農務省が許可した)。ウシ成長ホルモンの遺伝子を大腸菌に組み込んで生産されているので、これを組み換え型ウシ成長ホルモン(rBGH)という。rBGHを乳牛に与えると、栄養素の摂取効率がよくなり、乳房の血流が増えてミルクの生成が盛んになり、牛乳の生産量が増える。rBGHの注射によって牛乳の生産量が12%増えるという。EUとカナダでは使用にまったがかかっているが、アメリカをはじめその他の国の酪農では使われている。たとえば、1995年と1996年の間にアメリカだけでrBGHの使用量が45%も増えた。アメリカではrBGHの使用に獣医の処方箋は必要ない。不幸なことに、ガットの取り決めによって、EUはアメリカがrBGHを用いて生産した牛乳からつくった乳製品の輸入を禁止できない。 組み換え型ウシ成長ホルモン(rBGH)は人間にどんな影響をもたらしているのだろうか。ウシ成長ホルモンは、ヒト成長ホルモンと構造が35%異なっているために乳房や前立腺のリセプターと結合できないから、人間には影響がないという意見がある。しかし、遺伝子組み換えによって余分に増えたアミノ酸がホルモン作用を強めるために人間にも影響があるという意見もある。しかし、このことはそんなに重要なことではない。重要なのは、組み換え型ウシ成長ホルモンによって牛乳そのものが受ける変化である。rBGHによって牛乳の脂肪酸構成に変化が現れることはすでに1985年に知られていた(1)。 乳がんと前立腺がんに関して最も重要な影響は、rBGHによってインスリン様成長因子(IGF-1)の生成が増えることである。IGF-1はいろいろな細胞でつくられて血液中に放出され、細胞分裂を刺激する。その作用は、細胞分裂の第1期で細胞が大きくなって細胞内タンパク質が増えるときにとくに強い。 ウシ成長ホルモン(BGH)はヒト成長ホルモンと構造が違うが、インスリン様成長因子(IGF-1)はウシでもヒトでも同じである。ミルク中のIGF-1濃度は牛乳の方が母乳より高い。さらに組み換え型ウシ成長ホルモン(rBGH)を与えられた乳牛の出すミルク中のIGF-1は普通の牛乳より2-5倍も高い。さらに、rBGHで処理された乳牛の肉のIGF-1濃度は処理しない乳牛の肉の2倍ほど高い(2)。 酪農業界は長いこと、泌乳量の多い乳牛を選択育種してきた。牛乳を多量に分泌する乳牛ではウシ成長ホルモン(BGH)の分泌が多い。したがって組み換え型ウシ成長ホルモン(rBGH)が導入される前から、現代の牛乳のIGF-1濃度は昔の牛乳より高かった。IGF-1は牛乳の65度30分の滅菌では壊れない。普通の高温殺菌より高い175度45秒でもIGF-1濃度が減少しなかったという報告もある(3)。 思春期に女の子の乳房が膨らむときにも、IGF-1の細胞分裂促進作用が働いている。したがって、IGF-1濃度の高い牛乳・乳製品や乳牛の肉が乳がん細胞の分裂を促して乳がんの成長を促すのではないかという疑問が湧いて当然である。 1998年にスーザン・ハンキンスン博士に率いられたアメリカとカナダの研究チームは、更年期前の女性で血中のIGF-1濃度が最も高い女性は最も低い女性に比べて乳がんになるリスクが3倍高いという結果を発表した。著者らはIGF-1と乳がんの間に間接的ではあるが本質的な関係があると述べている(4)。 マギル大学とハーバード大学の研究者は血液中のIGF-1濃度が前立腺がんと関係が深いという研究結果を発表している。IGF-1濃度が最も高い男性は最も低い男性に比べて前立腺がんのリスクが4・6倍であった(5)。 このようにIGF-1と乳がん・前立腺がんとの間に深い関係があることはよく知られていたが、牛乳・乳製品の消費量とIGF-1の関係に言及する研究者はいなかった。しかし、1996年になってイリノイ大学のエプスタイン博士は組み換え型ウシ成長ホルモン(rBGH)を注射した乳牛から搾乳した牛乳を飲むと、血液中のIGF-1が増えて乳がんと大腸がんの発生が増えるという研究結果を報告した(6)。 1995年、EUは圏内で組み換え型ウシ成長ホルモン(rBGH)を牛乳生産に用いることを禁止した。このホルモンを乳牛に注射すると、牛乳にIGF-1が増えることを確認したからである。EU科学会議は、過剰のIGF-1が乳がんと前立腺がんの発生リスクの深刻な増加をもたらすというリスク判定を行っている。IGF-1が乳がん・前立腺がんに与える影響に関してさらなる研究が必要であるが、予防原則に基づいて行動するためにはすでに十分な知見が集積している。そのうちのいくつかを紹介する。 組み換え型ウシ成長ホルモン(rBGH)の使用を推進しようとする団体は「IGF-1は普通の牛乳にも存在する」「rBGHはたしかに牛乳中のIGF-1を高めるが、その濃度は普通の牛乳中濃度の範囲内にある」という。さらに彼らは「IGF-1は人間の身体の中にも自然に存在する物質である」と反論する。これに対しては次のように反論できる。私たちの身体はコレステロールを産生する。しかしコレステロールを多量に摂ると動脈硬化が発生する。IGF-1についてもコレステロールと同じことが言えるのではないか。たしかに私たちの身体はIGF-1を産生している。しかし歳をとると、血液中のIGF-1濃度が低下する。身体のIGF-1は乳製品の摂取によって増える。乳製品や乳牛の肉を食べることによって体内に増えるIGF-1が乳がんや前立腺がんを引き起こすのだ(13-15)。 酪農業界の代弁者は、牛乳に入っているIGF-1などの強力な生物活性物質は消化管内で消化・分解されてしまうので、血液中に入る(吸収される)ことはないと言っている。たとえば、組み換え型ウシ成長ホルモン(rBGH)でも自然界にあるウシ成長ホルモン(BGH)でも、その構造はタンパク質(ペプチド)であるから、吸収される前に個々のアミノ酸に分解されてしまう。だから、rBGHを餌に混ぜて与えるのではなく、注射しているのだという。これはもっともらしく聞こえるが事実は異なる。牛乳中のIGF-1は吸収されて血液中に入る。唾液中にもIGF-1が含まれていて、このIGF-1は消化管で分解される。しかし牛乳中のIGF-1は違うのだ。唾液とは違って牛乳の主要タンパク質であるカゼインに保護されているために消化を免れてしまう。 最近の牛乳は脂肪球がホモジナイズされている。この小さくなった脂肪球がカプセルになって、IGF-1やホルモンなどの生理活性物質を包み込んでいるために、消化液による分解を免れるのではないかと考えている研究者もいる。 組み換え型ウシ成長ホルモン(rBGH)が使われる前から、IGF-1は牛乳に含まれていた。当然である。IGF-1が生まれたばかりの子ウシの成長に欠かせない生理物質であるからである。この物質を本来必要としない大人が体内に取り込むようになって乳がん・前立腺がんの問題が顕在化したのである。 牛乳はIGF-1以外にIGF-2も含んでいる。IGF-1の濃度は30ng/mlであるがIGF-2の含有量は350ng/mlと10倍も高い。組み換え型ウシ成長ホルモン(rBGH)の関係でIGF-1に研究者の関心が集中したために、IGF-2に関する研究は非常に少ない。IGF-2にも強力な細胞分裂の刺激作用があるという(19)。 牛乳に含まれている物質で乳がん・前立腺がんとの関係が取り沙汰されているホルモンにプロラクチンがある。プロラクチンは、母親がミルク分泌を維持するのに必要なホルモンで、ミルクに含まれている。このホルモンが培養乳がん細胞の分裂・増殖を引き起こすことが知られている。 また、卵胞ホルモン(エストロジェン)は今までずっと乳がんの発生に関係が深いといわれてきたホルモンである。前立腺がんの発生にも関係があるといわれている。エストロジェンは、思春期の女の子の第二次性徴の発現に重要な役割を演じている。乳腺組織や脂肪が増えて乳房が大きくなったり、体型が大人に近づき身体つきが女性特有の丸みをおびるのもエストロジェンの影響である。 性周期で妊娠に備えて子宮内膜が肥厚する、妊娠が起こらないと内膜がはがれ落ちて経血となる。この月経サイクル(性周期)は卵巣ホルモンであるエストロジェンと黄体ホルモン(プロジェステロン)の支配下にある。エストロジェンは月経後のほぼ1週間ほど優位な状態にあって子宮内膜が増殖し、その作用で卵巣の卵胞が成熟する。前回の月経の初日から12日ほど経つとエストロジェンがピークに達し、ついで次第に低下しはじめる。この時期に卵胞が成熟して排卵が起こる。排卵後に優位を占めるホルモンがプロジェステロンである。このホルモンが優位になると体温が上がり高温期に移行する。妊娠が成立しないとエストロジェンとプロジェステロンが急激に低下して、厚くなった子宮内膜が脱落する(月経)。もし妊娠が起こると、プロジェステロンの産生はさらに増え、胚の成長が始まる。妊娠が進んでプロジェステロンは胎盤から産生されるようになると、プロジェステロンの濃度はさらに上昇し、とくに妊娠後半にはもっとも高くなる(月経周期中の血中最大濃度の10倍以上になる)。妊娠中にはエストロジェンも胎盤から分泌されるようになり妊娠後半に最も高くなる(月経周期中の血中最大濃度の数十倍)。 牛乳にはエストロジェンが含まれている。その濃度はそれほど高いものではなく、生体影響はたいしたことはないといわれている(訳者註参照)。しかし少量であっても重大な影響をもたらすことがある。女性ならみんな、性周期におけるエストロジェンのわずかな増加が乳房に微妙な影響を与えることを知っている。さらに重要なことは、このわずかなエストロジェンの増加がインスリン様成長因子1(IGF-1)の増加をもたらすことである(19)。エストロジェンは、普通の牛乳だけでなく、低・無脂肪乳にも存在する。哺乳類のミルクは、生後急速に成長する子どもが短期間だけ(離乳期まで)飲むことが許されている飲みものである。IGF-1やエストロジェンの濃度がそんなに高くなくても1日に幾度となく毎日、しかも長期間にわたって口にするから、乳がんや前立腺がんなどのホルモン依存性腫瘍細胞の分裂・増殖を促進するのである。そういえば、中国人は常々「ミルクは赤ん坊の飲み物(Milk
is just for babies.)と言っていた。 ここまで述べてきたことをまとめると次のようになる。 この章の文献 15.私の勧め この書物を読んで私のアドバイスを聞いても、自分は生涯にわたって乳製品を食べ続けてきたが何の悪い影響も受けなかったと言う人がたくさんいるだろう。これは、40-60本のタバコを毎日吸い続けても100歳まで生きた人がいるという主張に似ている。だからといって、人々にタバコを奨める人はいないだろう。私の主張は、遺伝を含めた何らかの理由で牛乳のホルモン・成長因子の影響を受けやすい人が乳がん・前立腺がんになるリスクを低減しようというものだ。 リスクは説明の難しい概念である。リスク問題の専門家は次のようにいう。「宝くじの本質を本当に理解できればだれもくじを買わないだろう。しかし人間の行動は、数学よりも個人的な経験や感情に左右されるから、宝くじを買う人が絶えることはない」。 がんのリスクの説明には飛行機をたとえに使うと一番解りやすい。私はタバコを止めるように説得するときにいつもこのたとえを持ち出す。「あなたはある会社の飛行機であるところへ行くことになっている。しかし、その会社の飛行機は10機に1機は墜落する。その会社の飛行機に乗りますか? 乗りませんよね。」科学者でタバコを吸う人が少ないのは、彼らがリスクを理解しているからではなかろうか。 私はタバコを口にしたことはない。乳がんになったことで自分が乳がんになりやすい人間だと判ったから、どんな形であれ乳・乳製品(乳牛の肉を含めて)をどんな時でも一切口にしないことにした。食事から乳製品を完全に除いて7年になる。乳製品を摂らないことにしたら、治癒不可能と言われていた頚部の大きな転移腫瘍が次第に小さくなって跡形もなく消えた。脆くなっていた爪はしっかり伸び、肌も最高の状態にあり、骨粗鬆症の徴候は全くない。ごく僅かに灰色が混じるようになったが、毛髪も乳がんになる前とほとんど変わらない。ほとんどの人に、私は、55歳という年齢よりずっと若く見えるようだ。自分でも以前と比べてずっと健康的で体調もよいと感じている。 最後に、私だけでなく、乳がんになっても私のアドバイスに従ってくれた人は乳製品を避けることによって乳がん死を免れていることをお伝えしておきたい。 私が提唱するプラント・プログラムは、今まですでに世の中に知られているブリストル療法やゲルソン療法のように一般的な抗がん食事療法ではない。すべてのがんが同じ原因で起こるわけではないから、万能の食事療法はあり得ない。このプログラムは、とくに乳がんと前立腺がんに的をしぼって、その細胞分裂・増殖を刺激する物質(ホルモンおよびホルモン様物質)を食事や環境から体内に取り込まないようにする方法である。このプログラムはさらに、乳腺や前立腺の細胞を健康な状態に保つために重要な働きをするヨウ素や亜鉛の摂取に配慮している。 プラント・プログラムの概略を掲げる。 <訳者後記> プラント教授の乳製品と乳がん・前立腺がんに関する主張はまことに明解である。哺乳類の子どもは、生まれてから離乳するまでの短期間、母親のミルクだけを飲んで育つ。ウシの子は母ウシのミルク(牛乳)を飲み、人間の子は母親のミルク(母乳)を飲む。牛乳も母乳も、タンパク質・脂肪・糖質・ビタミン・ミネラルという栄養素を含む単なる白い液体ではなく、生まれたばかりの子どもの成長を促すホルモンや成長因子を含む強力な生化学的液体(白い血液)である。ウシの子は1日に1キログラムも体重が増えるほどに成長が速い。したがって、牛乳には大量の成長因子とホルモンが含まれている。このような強力な液体を成人が飲んだらどうなるか。身体に過って生じたがん細胞の分裂・増殖を刺激してがんを発生させ、乳がんの治療を受けた人にはがん再発を促す。 欧米でも、日本と同様に、40代のキャリア女性に乳がんが多いという。彼女らには時間がない。調理に費やす時間をけずって仕事に全力を投入する。いきおい、低脂肪牛乳、カッテージ・チーズ、ヨーグルト、ハンバーグ(乳牛の肉)などを多用する。プラント教授は、この乳製品の多い食事が欧米のキャリア女性に乳がんが多い原因であるという。日本でも同様である。社会で活躍する女性は、朝食をパン(食パンは、小麦粉とイースト以外に、バターと牛乳を含んでいる)とコーヒー・紅茶で済ませ、アイスクリーム・ケーキの類いを好む。 日本の乳がんは40代後半の女性に最も多い。この年齢層の女性は1960年以降の生まれで、幼いときから牛乳・乳製品に慣れ親しんだ、いわゆる「牛乳世代」である。この年齢層の乳がんは20年前に比べて2倍に増えた。原因として指摘される「食生活の欧米化」を一言で言えば、バターくさいもの(乳・乳製品)を食べるようになったということである。プラント教授が勧める乳がん予防の食事の基本は、乳製品(乳牛の肉を含む)を食べない、大豆製品をたくさん食べる、新鮮な野菜・海草・果物を食べるという3点に尽きる。乳製品を全く食べないというこのプラント・ダイエットの実践は、いまや、日本人にとって難しいことになってしまったのだろうか。 日本人の食生活は、元来、「穀物+大豆+野菜(+魚)」であった。戦前までの一般家庭の食卓に乳・乳製品が上ることはめったになかった。この先祖の血を受け継いだ日本人は、たとえケーキ・アイスクリームが大好きな若い女性でも、コメのメシ(たとえば、おにぎり)を好んで食べる。乳製品はタバコと同じ嗜好品であると考えてほしい。頑固な愛煙家でも肺がんになればタバコを止めるように、「ケーキ・アイスクリームを止めるくらいなら死んだ方がまし」という強気の女性でも、プラント教授の本を読んでいれば、乳がんになったら乳製品を止めるかもしれない。「プラント教授の乳がんとの闘い」をお読みになって納得された方のお知り合いに、乳がんになった女性(あるいは前立腺になった男性)がおられたら、この文章の存在をお知らせ願いたい。 この要訳を行っている最中に、プラント教授から、「Your Life in Your Hands」の増補改訂版が2007年8月9日付けでロンドンのVirgin Booksから出版されるという連絡があった。この増補改訂版の日本語版を多くの日本人に読んでいただきたいと思っている。新版は、2007.年8月28日現在、日本で販売されていないが、amazon.co.ukから_6・95で入手できる。 PROFESSOR JANE PLANT |