その構造がヒトの肉に似ているという理由で、食用に哺乳類の肉をすすめる人がいる。これを押し進めれば、人肉が食用に一番適しているということになる。ひとが哺乳類を食うということは、ひとがヒトを食うことと同じである。宇宙船「地球号」には60億もの大型獣がひしめいている。あなたはヒトを食うか。「ヒトの肉を食らいし者、全身に紅き斑点を生じ・・・」 |
ひと殺し「畜生にも劣る奴だ」という罵りことばがある。ひとは畜生に優るか。近親相姦と並んで人殺しとヒトを食うことはひとの三大禁忌(タブー)とされている。 禽獣はメスを奪い合って(縄張り争い)、同種のオス同士が角突き合わせ、牙を剥き合う。負傷が原因で死ぬこともあろうが、ほとんどの場合、敗勢のオスが逃げて一件落着となる。ライオンやオオカミでも相手を噛み殺すまで戦うことはない。 ひとはひとを簡単に殺す。色恋の争いのあげく、ついかっとなってこん棒で殴リ殺したり、刃物で刺し殺したりするというのはひと以外の動物では起こり得ない。本能の壊れた動物である人間(岸田 秀)は手加減を知らないのだ。最も多いのは、我が道を行くために行く手を阻むものを消すという類いのもので、人間ならではの殺しである。殺して金品を奪うなどというのは極めて「人間的」な行為である。刑法235条に「他人の財物を窃盗した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役に処する」という定めがある。盗みに入って、「しまった!顔を見られた!刑務所入りだ!」と思って殺してしまうこともある。これは刑法が教唆する人殺しである。 刑法第199条に「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処する」とあり、第11条に「死刑は、監獄内において、絞首して執行する」とある。筆者は、若い頃、「人を殺したら死刑になる」と思い込んでいた。ところがそうではないのだ。「人を殺したら自分も殺される」というのは倫理感覚である。法律は一般人の行動規範ではなく、役人の行動規範を定めたものである。刑法199条は、役人に、「人を殺した者を捕まえて殺しても責任は問わない」と云っているのだ。日本の死刑は絞首(絞め殺すことだが、実際は吊し首)であるが、他に斬首、火刑(火あぶり)、薬殺(塩化カリウムの静注)、青酸ガスによる窒息殺、電気イスでの感電ショック殺などがある。死刑は動物の群れではあり得ない究極のヒューマン(人間的)な殺しである。科学技術を使う死刑はなおさらだ。 ライオンの子殺しが知られている。ライオンはプライドと よばれる複数のメスと子ども、それに1-7頭のオスからなる群れをつくる(土肥昭夫・岩本俊孝・三浦慎悟・池田啓一『哺乳類の生態学』東京大学出版会、1997年1月)。複数のオスは「連合(coalition)」とよばれ、つねに行動をともにする。連合は、激しい闘いの末に別の連合に乗っ取られる。この乗っ取りの直後に、群れにいる20ヵ月齢以下の子どもはオスの攻撃を受ける。なかでも6ヵ月齢以下の子どもは乗っ取り後2ヵ月以内にほとんど殺される。子どもを殺されたメスは間もなく発情し、乗っ取りオスと交尾する。自分の父親が群れにとどまっている期間内(平均26ヵ月)に十分成長できなければ、子どもの生存は保証されない。というのは、メスは、妊娠中(約6ヵ月)と哺乳中(約8ヵ月)は発情しない(排卵が起こらない)からだ。オスはメスを発情させるために子どもを殺す。オスは殺した子どもをを食うか。食わない。群れが移動したあと、ハイエナやハゲワシが始末する。 狭いケージの中で飼育されたマウスやハムスターには共食いがよく観察される。人工飼育というストレスが共食いの引き金になるからであって、自然界では稀である。バナナで餌付けされているチンパンジーが、縄張り争いで他の群れの固体を殺したり、同じ群れの殺して食ったという観察例が報告されている(ジェーン・グド−ル著、上野圭一訳『森の旅人』角川書店、2001年1月)。ヒトに近縁のチンパンジーは本能の一部が壊れているのだろう。 何日も獲物狩りに失敗したライオンのプライドが他のプライドに出逢った場合、襲いかかるだろうか。自然界にあって動物は同種の他の固体を食用に狩ることはない。自らの命をかけて他の群れを襲わないまでも、自分の群れの飢え死にが近い個体あるいは病み衰えた個体を食うだろうか。あるいはすでに息絶えた個体を餌として食うか。食わないのが獣(けだもの)である。 薬としてヒトを食う「生き肝を食うと長生きする、病気が治る」という話しがある。中でも、安達が原の鬼女伝説が有名である。姫が重い病気にかかった。「妊婦の生き肝を食べさせれば治る」と聞いた乳母が生き肝を求めて旅に出る。安達が原(福島県安達郡の安達太良山の山麓)で若夫婦に出逢った。女は身籠っていた。夜半に女が産気づき、男は産婆を探しに出かけた。そのすきに、乳母は妊婦の腹を割いて生き肝をとった。妊婦は「幼い時京都で別れた母を探して旅をしてきた・・・」と語って息絶えた。ふとみると、妊婦は見覚えのあるお守り袋を携えていた。なんと、妊婦は昔別れた乳母の娘だった。乳母はあまりの驚きに気が狂い鬼と化した。能の「黒塚」(宝生流)や「安達原」(観世流)は人肉を食らう鬼女の姿を描いている。宝生流謡曲本『黒塚』(わんや書店)に由ってその梗概を記す。
この部分、謡曲は次のようになっている。
現代人は「生き肝を食う」などと聞くと眉をひそめる。しかし、病人は別である。食わなければ助からないと知れば「生き肝」でも「生き心」でも何でも食う。脳死者からの「肝移植」「心移植」は身体に入る経路が異なるだけである。筆者は、かつて、喘息で苦しむ12歳の女の子が喘息にいいと差し出された3匹の青蛙を一気に飲み込む様を目の当たりにしたことがある。とくに科学技術で加工された人体なら、ひとはあまり抵抗感なく受け入れる。「薬喰い」である。一部のひとを除けば輸血という食人は医療行為として受け入れられている。 「臓器移植を望むひとと臓器を提供してもよいというひとがいて、それを結びつける技術が存在する限り、脳死者からの臓器移植に反対するものではない」というのが、「脳死臨時調査会」の多数意見であった。 脳死・臓器移植の是非が大きな話題になっていた1990年頃、大阪大学医学部教授がテレビで語っていた言葉を思い出す。「心臓移植すれば助かるのに、日本では毎年500人もの人々が亡くなっている。私たちは臓器移植先進国で移植技術を学んできた。ゴーサインが出れば明日にでも移植ができる」と。 刃こぼれ一つなくスパッと、首を斬り、胴を絶つ名刀を手に入れれば試してみたくなる。最初は藁人形を斬り、ついで猫や犬を斬る。切れ味が素晴らしい。しかし満足しない。そこで夜な夜な辻に立つ。技術とはそういうものだ。歯止めがかかるのはその技術の完成度が低い間だけのことである。 ひとが食料としてヒトを食うことはタブーとされている。人肉食がタブーになったのは、大昔、それが横行していたからではないかと勘ぐることもできる。ヒトは狩りやすい大型獣である。仲間同士が餌として殺しあっていたのでは集団が維持できない。タブーの始まりである。本能の壊れた動物である人間は殺しあう。憎しみという感情は人間特有である。襲われる前に襲うとい予断も人間特有である。中世のキリスト教徒は、神の名のもとに、無数の異教徒を殺した。「人間的」行為の極みである。 人間の身体には人肉が一番適しているという考えもある。牛乳よりも母乳がよい、あるいは人肉は牛肉に勝るという考えである。人肉は美味しいという食通的食人もある。中国の事例がたくさん知られている。大西俊輝は『人肉食の精神史』(東洋出版、1998年3月)に『韓非子』の記載例として、斉の宮廷料理人「易牙」の話をはじめ多数の食人をとりあげている。
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