雑穀食・農耕民族の旺盛な性能力
〜小林一茶の交合記録〜

雑穀食の農耕民族の性能力は絶大であった。現代人の目からみると「毎晩なんて」と思うかも知れないが、江戸時代の農民夫婦はみな一茶のような生活を送っていたのである。「日本人は性に枯淡」という迷信があるが、実際は逆に極めて濃厚であった


一茶は句日記に自分の交合(媾合とも書く。性交のこと)の記録をのこしている。交合記録をのこしたということは一茶の特異な性格によるものであろうが、頻繁な交合そのものは当時の農民夫婦にとって当たり前のことであった。テレビもない、灯火もとぼしい、飯を済ませて日が落ちれば、囲炉裏の明りで藁仕事をして、一つ床につく。床に入れば、肌を合わせ、全身を弛緩させ眠りにおちるというのが生活の流れのになっていたのだ。とくに冬場の冷えた寝床の中で暖をとるのはお互いの人肌である。安上がりかつ効率のよい人間湯たんぽであった。どちらからともなく腕をさしのべ、脚をからませるのは自然の成りゆきである。

一茶が何を食していたかは記録にない。蕎麦、芋汁、餅などという食品は日記に残っている。おそらく、雑穀を野菜と煮込んだ雑炊が一茶の日常茶飯であったのだろう。時には果物も口にしたし、たまには野鳥・野うさぎ・川魚なども喰ったことだろう。越後や北陸の海で猟れた海水魚も1年に1回ぐらいは口にしたに違いない。しかし、日常の食事はあくまで北信濃の田畑で採れたものが中心だったであろう。雑穀食の農耕民族の性能力は絶大であった。大名などは夜毎お伽の側女が添寝したというではないか。農夫と農婦の夫妻は同じ男女が互いに添寝をしていたのだ。現代人の目からみると「毎晩なんて」と思うかも知れないが、江戸時代の農民夫婦はみな一茶のような生活を送っていたのである。「日本人は性に枯淡」という迷信があるが、実際は逆に極めて濃厚であった。

連日連夜の交合の記録は3カ所ある。文化13年の第1回(54歳)は子を得ようとするものだが、第2・3回は妻の妊娠を承知の上だから、子の誕生を願ってのものではない。第2回目の文化14年(55歳)年末の交合記録と文政5年(60歳)年始の記録は夫婦交合の視点から年末を観察し、年始を描写した文学作品である。

本編は、大場俊助「一茶性交の記録−七番日記・九番日記−より」国文学解釈と観賞48(5):177-216(至文堂)に依った。依ったというよりは、全編これ大場氏の文章によって成り立っているといった方が正確である。

文化9年11月24日、一茶は50になって、永住を心に決めて故郷北信濃の柏原に帰った。江戸ではひととおりの俳人として遇されていた。江戸周辺の葛飾、下総、上総の俳諧門人宅を回って飯と寝床を提供してもらい、帰りしなになにがしかの駄賃をもらっていた。多少たまると借家に帰るというのが江戸での一茶の生活であった。「是がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」。柏原を死所と定めたのである。

年が明けて文化10年正月19日(一茶51歳)、父親弥五兵衛の13回忌の法事で親族が集まった際に腹違いの弟仙六に父・弥五兵衛の遺言の実行を要求し、家屋敷、家財の分与を迫った。義母さつ・仙六夫婦の住む家を二つに仕切って一方を自分の住処とした。

その1年後(52歳、文化11年)、一茶は、母親の実家の当主で従兄の徳左衛門の薦めで菊という年28の女性を妻に迎えた。菊は出戻りではなくひとり身だった。江戸帰りの俳句の宗匠という触れ込みが効いたのだろう。菊は晩春の4月に嫁入りした。52の男が28の女を娶ったのである。7月から江戸にゆき、暮の28日に帰郷した。その28日に「妻月水」と記している。これが妻の月経の記録始である。一茶は妻の月経も日記に残した。これによって交合と妊娠の関係がわかる。

明くる文化12年(53歳)、一茶は妻ありてわが家で歳旦を迎えた。「梟(ふくろう)よ面癖(つらぐせ)直せ春の雨」思えば孤独に漂泊し、貧窮の苦渋のしみついた暗いツラ癖を直して、明るく生きよと自分にいう。7月10日、妻「月水」。その後月経の記録がない。一茶は、9月1日に柏原をたって江戸に向かい、家を空けていたからだ。暮の28日、4ヵ月ぶりに柏原に帰った。菊は妊娠していた(翌年に子を生む)。

文化13年(54歳)歳旦に「こんな身も拾う神ありて花の春」と詠む。自分のようなものでも、ひと並みに妻を迎えて家庭がある。「捨てる神あれば拾う神あればぞ我も花の春」。1月20日、善光寺に赴いていた一茶は我が家に帰る。

廿  陰(くもり) 柏原ニ入ル 隣逮夜夕飯
廿一 晴 墓参 夜雪 交合
廿二 晴 昨夜、窓下ニ於テ、茶碗・小茶碗、人ニ障ラザルニ、微塵に破ル。妻云ウ、怪霊ノ事ト云々。股引(ももひき)及ビ犢鼻褌(ふんどし)ヲ洗フ。

20日は亡父、弥五兵衛のの逮夜(たいや)だから、一茶・菊夫婦は隣に行って仏前に手を合わせ、夕食を馳走になった。21日は命日だから弟と墓に詣でる。夜雪となり、妊娠8ヵ月の妻と交合する。父親の命日の墓詣をした夜、妊娠中の妻と交合したのだ。親の命日は精進日で潔斎する。精進日には夫婦は交合を慎む。また、当時は妊娠中の交合は禁忌であった。窓のところにおいた茶碗や小茶碗が、だれもさわらないのに、骨破微塵にこわれた。妻はふしぎなこと、ただごとではないという。翌朝、妻は昨夜の怪事におびえて、自分の股引と一茶のふんどしを洗い浄めたというのである。一茶は、2つの禁忌を破ったことをやがて生まれた子がわずか1ヵ月で夭折と結びつけて考えたに違いない(この部分は後になって書き加えられた)。妊娠している胎児がそこなわれるほどに、激しく交合してしまった。一茶の交合の記録はこのときから始まる。記さずにはいられなかったのだ。人間は傷口をなめる。一度、自分で禁忌と思っていることを犯すと、おなじことを繰り返さずにはいられないのだ。

この年(文化13年、54歳)4月14日に「菊、男子ヲ生ム」。痩せ細った虚弱児であった。一茶は長沼(長野市)でその報せに接して、15日に善光寺にお参りして赤子の無事を祈り、16日は百万遍念仏会でその成育を祈願する。18日には六川(小布施六川)の梅松寺の仏前に額ずく。雨後の蛙の争いをみて「痩せ蛙まけるな一茶是にあり」と心の中で叫ぶ。22日には善光寺に引きかえし、徳本上人の十念に参り、わが子の無事を祈願してもらう。一茶も念仏を唱える「上人の口真似してやなく蛙」。23日には徳本上人のあとを追って寛慶寺に詣でてひたすらみ仏の大慈大悲のお袖にすがる。28日に妻の実家に妻子を見舞い、千太郎と名付けた。ところが5月11日、危篤の報せを受けて未明にかけつけたが間に合わなかった。「四月十四日生マレシ男子、寅刻(午前4時)に没ス」。生後わずかに28日で、父のみとりも受けず長男千太郎は死んだ。ネブッチョ仏(寝釈迦)のように、白い帷子(かたびら、死に装束)に包まれて、小さな眼をとじて冷たくなっている。せめてもう一度、眼をあけてくれ、とゆすってみる。「時鳥(ほととぎす)ネブッチョ仏ゆり起こせ」。その後、千太郎にかわるつぎの子が欲しいという願望が一茶の胸にふつふつとわき上がる。

千太郎が死んだ年の8月1日、菊は一茶と口論したあげく、家をとび出す。日頃の鬱憤が爆発したのだ。菊は、4月の出産と産後の疲労、5月のわが子の死による悲嘆、家事・農作業の忙しさで心の動揺していたのだ。一茶は俳句をつくるだけで農事は一切しない。田畑の耕作はすべて妻と小作にまかせきりにしている。

夫婦喧嘩はヒョンなことから仲直りする。口喧嘩のあと、壁一つ隣り合わせた仙六一家を気にしながら54の男と30の女は、まるで20の男女のように騒々しく睦みあった。「なんと、昨夜は五つも交わったぞ」一茶は机の上の句帖を引き寄せ、8月8日の項に「菊女帰ル 夜五交合」と記した。この8月には、連日連夜の房事、交合の回数を記録する。5月11日に千太郎が没してから3ヵ月後の8月の記録である。

六 晴 キク月水 弁天詣デ
七 晴 菊女赤川(実家)ニ入ル
八 晴 菊女帰ル 夜五交合
九 晴 田中希杖ヨリ一通来ル、去ル五日、沓野ノ男廿二、女廿三、心中死ス
十二 晴 夜三交
十五 晴 婦夫月見 三交 留守中、木瓜(ぼけ)の指木(さしき)、何者カコレヲ抜ク
十六 晴 白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
十七 晴 墓詣 夜三交
十八 晴 夜三交
 廿 晴 三交
廿一 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯 四交

5月に千太郎が死んだから、急いで子をつくらなければならない。連日の交合は妊娠を目指したものであったが、8月6日の「キク月水」に始まり、閏8月1日の「キク月水」と徒労に終わっている。連日の子作りに励む前に、妻キクが弁天詣をしたのは不覚であった。弁財天は男女の仲を嫉妬する神さまだからだ。一茶は、日記が世にでたときのために伏線を張っておく。キクの月経は3日型のようだ。8日におわるとすぐ交わる。月経直後は妊娠率が高いといわれていたのだろう。その期を逸せず、すかさず5交する。9日に心中を記したのは、心中前夜の男女の交わりは激しいということをいいたいのであろう。13日、14日は門弟回りをしていて一茶は家を空けていた。15日に「木瓜の指木、何者カコレヲ抜ク」とあるのは、2日も留守したから面当てに抜いたと言いたげである。「何者」かは分かっている。菊以外にいないのにわざと「何者カ」と記す。8月15日は、仲睦まじく並んで「婦夫月見」する。ただし、夫婦で月見をしてから交合したのではない。木瓜の挿し木が抜き捨てられているのを見て、昼3交し、夜、夫婦で月見をしたのである。なお、「十六晴 白飛ニ十六夜セント行クニ留守」とあるのは門弟の医師・白飛の家で月見をしようとでかけたが留守であった、の意である。

上記の日記で「夜三交」とただの「三交」を区別しているが、ほかのところでは「暁一交」「旦一交」と書き分ける。交合を夜・暁(未明)・旦(早朝)と書き分けているところから、単に「三交」とあるのは、夜でもなく、未明でも早朝でもなく、昼の交合をさしているのだろう。誰に遠慮すこともない夫婦二人きりの暮らしだ。文字通り、連日連夜、朝・昼・夜の交合である。

一茶は14日の祖母、17日の母、21日の父の命日に墓詣をしては交合する。祖先の祭祀を絶やしてはならないと、命日に墓参をしては1日も早く嗣子をもうけようとと交合に励んでいるように見える。しかし、後に記す2回の連日連夜の交合記録は、ともに妻が妊娠中の交合だから、必ずしもそうとばかりは言い切れない。17日の母の命日に「墓詣、夜三交」とあるのに、21日の父の命日には墓詣を怠って「隣旦飯、四交」とある。隣家の仏前に回向して朝食を馳走になり、帰って「四交」している。連日の晴天続きに隣村の牟礼では雨乞いをしている。夜通しの大雷がとどろく。墓詣を怠った父の怒りのとでも思ったのだろうか、連日の交合もこの日をもってうち止めとする。一茶は、はじめの妻の「弁天詣」、おわりの「通夜大雷」を気にしていたが、はたして閏8月1日「夜雨、菊月水」で、連日連夜の交合30回の努力の甲斐はなかった。

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