雑穀食・農耕民族の旺盛な性能力
〜小林一茶の交合記録〜

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9月16日、一茶は江戸にゆく。11月19日、生涯の知己で恩顧を受けた夏目成美が68歳で没した。一茶はヒゼン療養のため、下総守谷(茨城県守谷市)の西林寺にこもって年を越す。文化14年(55歳)の春を西林寺で迎え、故郷の妻菊を想い「ちりじりにいてもするなり花の春」と詠んだ。その後、江戸・上総を回って、7月4日、ほぼ10ヵ月ぶりで柏原に帰った。8月14日は祖母の命日だから、小丸山に墓参りをして、妻と交合する。

十四 小雨 墓詣 三交
十五 晴 井掘 二交 二朱ト三百文

井戸掘に2朱と300文の手間賃がかかったということである。江戸から帰った7月に菊は妊娠したようだ。翌年5月に長女さとが生まれているからだ。

この年(文化14年)の12月、妻菊は妊娠5ヵ月。それを承知で、一茶は連日連夜妻と交わる。妊娠中だから子をうるためではない。

三 晴 黄精酒ニ漬ク
十一 晴 黄精喰ヒ始ム
十二 雪 二倉に泊ル
十三 晴 柏原ニ入ル 茶日
十四 晴 徳左衛門来ル 酒 夜関山の酒、口切ル 
十五 大雪 暁一交
十六 晴 神仙丹四服、赤川より来ル
十八 雪 キク女数珠袋失クス、今日卯刻、箱ノ間ヨリ出ヅル所、血点アリ、怪異ナリト云々
廿一 晴 隣旦飯 暁一交
廿三 晴 旦一交
廿四 雪 旦一交
廿五 雪 旦一交
廿六 終日吹雪 仏日 餅六升・午房二臼
廿九 晴 五交

12月3日に陰干しにして蓄えておいた黄精(ナルコユリ、強精薬)の球根を酒に漬ける。5日は暁から吹雪、「隣ヨリ芋汁来ル」。9日は夜吹雪、11日は朝吹雪、黄精を喰い始める。交合に備えて精力の増強を図る。12日も雪、亡母の実家の二ノ倉の庄屋・宮沢徳左衛門宅に行き、神仙丹を2服して勢をつける。神仙丹は中風と強精の薬である。13日は茶日(ちゃび)だから柏原に帰る。14日は祖母の命日だが、小丸山の墓地は雪が深いから、ふもとの菩提寺・妙専寺から遥拝する。二ノ倉の徳左衛門が来たから、酒を飲む。夜、関山からきた酒を「口切ル」。15日は大雪である。いよいよ暁一交する。昨夜は関山の酒を口切り、今暁は妻との交合の口切りである。16日、妻の実家の赤川から精力剤の神仙丹が4服おくられてきた。17日は亡母の命日だが、墓地は雪深いから遥拝で済ませ、隣の家に芋汁をおくる。18日は雪、菊が数珠袋をしまい忘れて見つからなかったが、今朝卯の刻(午前6時)に思いもかけない箱の間から出てきた。血痕が点々とついているので、妻はおびえて「怪異」なことだという。これは去る文化13年正月21日に妊娠中の妻と交合したら、茶碗・小茶碗が微塵に壊れたので、妻が「怪霊」のことだといっておびえたのに照応している。

茶碗の割れたのが、千太郎夭折の前兆であった。ここでも数珠の血痕の怪異は、やがて生まれてくる長女さと病没の伏線となっている。一茶の創作かも知れない。20日の「餅二升ツク」、26日の「餅六升・牛房二臼」は「杵で臼をつく」(男女交合の隠語)は一茶の遊びか。21日は亡父の命日、暁に1交する。雪深いから墓参りをやめて、隣家の継母.弟夫婦と朝食を共にする。23日は朝1交、24日は雪、朝1交、25日も雪で朝1交。26日は仏日だから交合はやすむ。終日吹雪である。餅6升と午房2臼つく。27日は吹雪も止んで晴。二ノ倉から歳末年始用の金1両がとどいたから、酒杯をあげる。亡母の実家の二ノ倉の庄屋、宮沢徳左衛門は遺産相続後の一茶の所持金を金利をつけて預かっていた。29日はこの年の大晦日、空は晴れ、夫婦水入らずで昼5交。

文化15年、改元して文政元年(一茶56、菊32歳)の元旦、産土神の諏訪社と菩提寺の妙専寺に朝参りして妊娠7月の妻の安産を神仏に祈願した(この年の5月に長女さとが生まれた)。正月8日に「八 晴 旦一交」と記して、菊との交合は今日が今年の口切りだとしている。3月21日は亡父の命日、まず墓参りをし、隣の仏前に看経回向して安産を祈ってから、出産を赤川の実家に託すため妊娠9ヵ月の妻を送って行く。

5月4日、「キク女子生ム」という報せが柏原に届いた。期待した男の子ではなかったが、なによりも安産でよかったと、翌5日、赤川に妻子を見舞い、さとく育てと願って「さと」と命名する。生まれつきさとい子であったが、利口な子ほど薄命であると後に思い当たる。「十四日須坂(須坂市)ノ普願寺ニ詣」で産後の肥立ちと長女の生育を祈る。27日に妻子が元気で我が家に帰ってきた。

以前から強精薬を愛用していたが、長女さとが生まれてからこの傾向が一層強まった。14日の祖母の命日に「墓詣、黄精掘ル」、亡母の命日17日にも「墓詣、黄精掘ル」と祖母・母・父の命日には墓参りしては強の薬草を採る。10月には「神々やことしも頼む子二人」と詠む。激しい交合の記録を強靱な性衝動と強烈な生殖願望の表出とみて一茶を老人性異常性欲の持ち主だという人もいる。たしかに、交合の記録は何人もなし得なかったことで常人を超えているが、連日連夜の交合などは農民にとっては普通のことであった。夫婦というものは、いくつになっても、一つの床に入ったら相擁して眠りにおちるというのが常であった。ただ、一茶の場合、強精薬に対する執念は常軌を逸している。そんな強精薬などに薬効は皆無であったのだから。夫婦の毎夜の交合はこの時代の農民の常であったが、3交、5交は度を過ぎている。一茶が「まだ若いものには負けないぞ」と強がったのか、あるいは菊女が求めたのか、その辺の事情は判らない。

文政2年は一茶57歳、菊33歳である。「八番日記」に「こぞ五月生まれた娘に、人並みの雑煮膳祝はせて」「這へ笑へ二ツになるぞけさからハ」と詠み、「目出(めでた)さも中位なりおらが春」とも詠んだ。57歳になってはじめて味わう人の親の気持ちだった。ひたすら長女さとの成育を祈って、元旦は産土神(うぶすながみ)の諏訪社と菩提寺の妙専寺に参詣する。12日には古間の社に、15日も社詣でし、17日も仏参りをする。一茶はこの子が可愛いくてならなかった。それなのに、それから半年後の6月8日に、さとは痘瘡(天然痘)に冒され、手当てのかいもなく「六月廿一日のあさがおの花と共に、この世をしぼみぬ」(おらが春)。「サト女、コノ世ニ居ル事四百日、一茶親シク見ル事百七十五日、命ナル哉、今巳(み)ノ刻(午前10時)没ス。葬未(ひつじ)刻(午後2時)、夕方斎(とき)フルマイ」をした。22日に「七日仕廻ノ斎膳」一七日(いっしちにち)の法事を行い、27日に「サト女骨納」(八番日記)した。

大場俊助氏は「八番日記は文政二年から同四年にいたる句日記である。現存のものは自筆本ではなく、「風間新蔵源喜昌、嘉永四年亥八月十二日写終」ると巻末にしるした写本で、一茶没後二十五年の書写である。上欄の日記は文政三年二月でおわり、それより文政四年末まで、書写者がはぶいてしまったのは残念である」と書いている。

可愛がっていたさとが死んだ。さとが、疱瘡(ほうそう、天然等)をこじらせて死んだのは、誕生が過ぎて1月あまりしかたたない文政2年6月21日のことだった。突然に、襲いかかってきた不幸に一茶は茫然とした。だが一茶の本当の不幸は、そのときにはじまったばかりだった。

文政3年(58歳)10月2日に次男石太郎が生まれた。それから間もない16日に一茶は脳卒中で倒れ、半身不髄と言語障害を起こし、片足の歩行が不自由になっていた。年が明けて文政4年(59歳)正月11日、石太郎がこの世にあることわずか96日で没し、一茶は「春匆々の悪日(あくび)かな」と嘆いた。

「九番日記」は文政5年(60歳)から同7年(62歳)までの日記句帳である。しかも文政5年正月の交合の記録から始まる。60歳の元旦は「晴、昼ヨリ雪又晴」であった。北信濃の山村柏原に、春を迎えることはや10年、妻を迎えて8年になる。

二 終日雪 権左衛門諷始(うたいはじめ) 与宗次・伝吉喧嘩始
三 晴 寅刻、菊始
四 晴 夜、五西村薬八出火
五 晴 隣夕蕎麦切
九 晴 夜交 旦茶静ニ一通出ス 太きょう・夢南入
十 晴 巳刻ヨリ吹雪、寺ニ礼
十一 晴 石太郎一周忌 茶饗
十二 晴 夜交
十三 晴 旦交 老母旦飯
十四 晴 墓
十七 晴 旦交
十九 雪 旦交
廿一 雪 墓 隣旦飯

2日は名主・権左衛門が同好を招いての諷始(謡始)、親類の与宗次・伝吉の「喧嘩始」は翌3日の「菊始(姫始)」を引き出すための俳諧師一茶の文学的工夫である。この年は閏正月がある。菊は3月10日に3男金三郎を生むから、このとき菊は妊娠7ヵ月。妊娠を承知の上での菊始である。4日の火事は「出火始」のつもりか。5日の夕べは隣の家で蕎麦切を馳走になる。親族の「和合始」である。6、7、8日は事もない。9日は朝のうちに茶静に書状を認め、これに太きょう・夢南への便りを同封した。夜は菊始から7日目の交合。10日は妙専寺への年始参りをかねて次男1周忌の供養を頼む。11日は次男・石太郎の1周忌。文政3年(59歳)10月2日に次男が生まれ、それから間もない16日に一茶は脳卒中で倒れ、半身不髄となったことは上述した。文政5年正月の時点でも歩行が不自由であった。この年始の交合に回数の記録がないのは、一茶もすでに60歳、おととしからの脳卒中を用心して慎んだのかも知れない。菊はただの農婦だった。丈夫で若くて、懸命に働いた。一茶は、思いがけなく若い妻を得たことを果報と思い、2、3年は若い身体に溺れた。だが娶って8年にもなり、鳴子百合だ、碇草(いかりそう)だと精のつく薬草を漁ってはげむ房事にも、少し倦きた。その分だけ、話し相手には不足な菊に、不満が出てきていたのだろう。

交合の回数まで記すのは一茶の露悪趣味だ。なお、この年の3月10日に3男金三郎が生まれているから、この正月は(この年は閏正月がある)、妻菊は妊娠7ヶ月であった。したがってこの正月の交合は子がほしくての交合ではない。12日は夜交わり、13日は朝交わる。17日は朝交合してから亡母の命日で墓参詣。19日も朝交合、雪になる。21日も雪、父の命日である。腹違いの弟と墓参りして、隣の仏前に看経し、朝食を共にする。

文政5年(一茶60歳)には閏正月がある年で正月が二つある年である。その閏正月は菊は妊娠8ヶ月。3月10日、日記に「寅刻、菊女金三郎ヲ生ム」とある。金(こん)三郎は一茶の3男で、菊の最後の子である。

同年6月17日に「菊女、痛風ヲ起ス」とあるが、1ヶ月後の7月11日に菊は父親の葬式に出かけているから重症ではなかった。

文政6年(一茶還暦61歳)の2月19日に「菊心下ル」という知らせを受けて、家を開けていた一茶はいそいで帰る。狭心症のような発作があったのか。3月2日、菊の病が「再発」、6日「瞑眩」(めまい)、8日には服用した人参湯を吐く。この頃から、菊はただ事ではない病状を現わす。4月9日には起き上がれなくなり「ヲカワ(御厠、おまる」を使いはじめる。11日には実家の母親が看病に来る。12日には薬湯で「大瞑眩」を起こす。一茶自身、中風で歩行が不自由である。16日には乳呑み子の金三郎を里子に出し、21日には菊を駕篭で実家に運んだ。実家では吐いたりめまいを繰りかえし、ますます衰弱していく。5月3日にはさらに悪化し、寒気を訴え、炬燵が欲しいというようになった。5日に容態が凶変、11日には危篤に陥り、12日に「菊女没ス」「時々雨」、18日に「骨納メ」とある。嫁して10年、菊37歳で死別した。

年もおしつまった12月21日、3男金三郎も下痢による衰弱で死んだ。これで妻菊をはじめ、千太郎(この世にあること28日)、さと(1年2ヵ月)、石太郎(96日)、金三郎(1年9ヵ月)の3男1女も、みなあの世にゆき、一茶は10年前のもとの木阿弥のひとりぼっちになった。くる年は「もともとの1人前ぞ雑煮膳」であった。

文政7年(62歳)、金三郎が没してまだ半月の1月6日に、一茶は国境に近い寺の住職に「お話しの坊守ほしく候」と後妻の口利きを頼んでいる。この話はまとまらなかったが、本家の万屋弥市の世話で2番目の妻を娶った。嫁入りの日取りの打ち合わせに「弥市飯山(飯山市)ニ行ク」。嫁は飯山藩の家中、田中氏のむすめ雪(38)である。年は38とはいえ武士の娘である。24歳も若い新妻に喜び、不覚にも「一茶夜尿ス」。5月22日に嫁がきた。24日に雪は里帰りして、29日に帰る。一茶は、翌30日から門弟まわりにでかけ、6月はまるまる、7月の初めまで新妻に留守をさせて、7月9日に40日ぶりで我が家に帰った。あまりのことにあきれたのか、雪は12日からぷいと実家に帰ってしまい、27日に戻った。その間、一茶は下痢になやまされていたから、雪を詰った。そんなにお気に召さねばおいとまをと、雪は捨てぜりふをのこして飯山に帰り、ふたたびもどっては来なかった。8月3日「犬鰹節一本引く、雪女離縁、ト英来ル」と記す。離縁話を頼まれてきた門弟のト英に縁切り状を渡したのだろうか。62の一茶に38の雪女。俳諧の宗匠といっても、雪が思い描いた夫とはおよそかけ離れていたに違いない。江戸で修行した俳諧の宗匠と聞いて洒脱な風流人とでも思っていたのだろう。出戻りか行き遅れか分からないが、雪は軽輩とはいえ、武家の娘である。一茶は歯の抜けた中風病みのお爺さんである。もともと無理な結婚であった。

一茶と雪が5月22日に結婚して8月3日に別れるまで2ヵ月あまりあるが、同じ屋根の下で寝起きしたのは、わずか6日に過ぎない。初夜匆々、夜5交合には、38歳の新妻もさぞびっくりしたことであろう。雪と別れた翌月の閏8月1日、門人の家に滞在中、2回目の卒中発作に見舞われた。今度は「不言病起ル」で言葉まで不自由になった。家に帰っても、養う人もいない年寄りである。門人の家から家へと手渡され、12月になってようやく柏原の家に帰った「寒空のどこでとしよる旅乞食」。

文政9年(64歳)に「弐朱弐百文」の結納をおくって、柏原に乳母奉公に来ていた越後頸城群二俣村の宮下やを(32歳)と3度目の結婚をした。実母の生家の当主徳左衛門が「病人のひとり暮らしでは、どうにもしようがあるまい」と世話をした。やをにとっては自分の年齢の2倍の64歳の爺やとの結婚である。やをが承知したのは、前年生まれた倉吉(2歳)という連れ子があったからでもあろう。やをは気立てのよい女であった。子どもを連れて一茶の家の者になるとくるくると働き、一茶の面倒もよくみた。一つ蒲団に寝ることもいやがらなかった。

文政10年(65歳)閏6月1日、柏原の大火で63軒の家が焼け、一茶も焼け出されて、屋敷の焼け残りの土蔵に住むことになった。その火事のとき、やをは脚の不自由な一茶を背負い、子どもの手をひいて、必死に逃げのびた。3度目の妻と同棲1年有余の11月19日の朝食後、一茶は3回目の脳卒中発作を起こし、そのまま眼を開くことなく七つ半(午後5時)ごろ死んだ。やをは大火後に土蔵の中で妊娠したようだ。翌年の文政11年4月に遺腹のやた女(46歳で明治6年没)を生まれているからである。やた女によって家系がつがれ、一茶の子孫が柏原に健在でおられる。

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参考文献

大場俊助「一茶性交の記録−七番日記・九番日記−より」、国文学解釈と観賞48(5):177-216、1983年3月、至文堂

藤沢周平「一茶」、文春文庫、1981年12月、文藝春秋


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