「穀物+大豆+野菜+(魚)」という
日本食の威力
〜山椒は小粒でもピリリと辛い〜

「フジヤマのトビウオ」古橋広之進は1日5合(0.7 kg)の米を食べて驚異的な世界記録を樹立した。山椒は小粒でもピリリと辛い.。


「山椒は小粒でもピリリと辛い」「大男総身に知恵の回りかね」は小柄な男の負け惜しみでもあったが、一端の真実でもあった。現在の日本人で、オリンピックの陸上競技でメダルが狙えそうなのはハンマー投げの室伏広治ただ一人である。しかし、室伏の母親はチェコスロバキア人(生まれながらにして肉を食べ牛乳を飲んでいる民族)である。戦前の小柄な日本人は強かった。1902年11月に藤井 実が陸上100メートル10秒24の日本人初の世界記録を残している。

1928年のアムステルダム五輪では織田幹雄が三段跳びで優勝し、1932年のロサンゼルス五輪では南部忠平が走り幅跳びで優勝した。1948年のロンドン五輪には敗戦国の日本は参加を拒まれたが、五輪と同日程で開催された全日本水上選手権で古橋広之進が1,500メートル自由形で18分37秒0という当時としては驚異的な世界記録を樹立した。1948年といえば敗戦の3年後で、多くの日本人はイモと雑穀で飢えをしのいでいた時期である。古橋もイモを食いながら練習に励んだ。ちなみに、全盛期の古橋の身長は174センチ。当時は大柄であったが、現在では並みの体格である。

古橋は1945年(昭和20年)4月、日本大学農学部に進学した。この8月に日本の戦争は敗戦に終わった。日本図書センター刊行(1997年2月)の「人間の記録20 古橋広之進力泳30年」から食糧に関する記述を抜き書きする。

大学入学と同時に私を待ちうけていたのは勤労動員であった。その年の春から夏にかけて、私は神奈川県の厚木飛行場の横にある高座海軍工廠で、勤労学徒の一員として働いていた。ここでは、紫電とか雷電という戦闘機を作っていたが、私たちは工場の近くに住み込んで、開墾とサツマイモづくりに従事していた。

私たちの起床は午前四時半、アオサという海藻の入った塩汁に豆カスという粗末な朝食をすますと、五時半には宿舎を出発。鍬をかついで隊列を整えて開墾地まで延々と歩く。

つらい思い出だけが残っているが、なかでもいちばん苦しかったのは、やはり食糧事情であった。昼の弁当は、ニギリメシ1個と炒った豆。空腹をかかえて宿舎にたどり着けば、待っているものは豆カスとグリーンピース。たまにサツマイモでもあれば、その皮はおろか、尻っぽの先まですべて胃袋に直行してしまう。ひどかったのは食事だけではなかった。宿舎には、風呂もなければ蚊屋もない。毎日、井戸水を汲んで体を洗った。床につくと、こんどは蚊の集中攻撃である。しかし、どんなにかゆくてもそれは寝つくまでのほんのわずかな時間で、疲れ切っているためにすぐに深い眠りに落ちていった。

古橋は小学生時代水泳で活躍した。1940年(昭和15年)、小学校6年生の古橋は静岡県西部の学童大会で100メートルと200メートル自由形でいずれも当時の学童新記録で優勝している。その強さから豆魚雷といわれていたらしい。1946年、少年時代の古橋を知る友人の勧めによって日本大学の水泳部に入った。

朝、茶わん一杯のご飯を食べて、新聞紙にくるんだ1個のにぎり飯をカバンに入れて、鶴見の下宿を出て藤沢の学校へ行く。弁当のにぎり飯は電車の中でたちまち胃の中におさまってしまう。昼は、友達からのサツマイモの差し入れを期待するのだ。それがない時は水を飲んでがまんした。

フラフラになりながら1日5,000メートル以上泳いだ。

藤沢から1時間半もかけて東松原のプールへ通って練習、終わってから鶴見の下宿へ帰る。練習に加えて1日四、五時間の電車の中は、地獄のような苦しみで座席に座ることもできず、立っていると倒れそうになった。

そのころ(註1946年)、食糧事情は極端にわるかった。水泳の練習をするにも、学校に通うにも、まず第一に確保しなければならないのが食糧であった。

暇を見つけては、私は買出しに歩いた。買出し先は、今日では住宅化が進んでいる横浜線の沿線の、小机、中山、淵野辺あたりの農家である。その頃、農家の人たちは非常に強気で、現金で食糧を売ってくれる農家は1、2割しかなかった。ほとんどが食糧と引きかえに、衣類、靴、紙とか石けんなどの日用品を要求してくる。私たちにそんな気のきいた品物があるわけがない。何軒も何軒も頭を下げて歩いて、やっとサツマイモを分けてもらう。リュックサックにいっぱいのイモを背負い、両手にも持てるだけのイモをさげて田舎道を歩く。運よく取締りにもあわずに帰れた時はよいが、時には、運わるく取締りにあって、やっとの思いで手にいれたサツマイモを没収された時の悔しさといったらなかった。物資統制下の当時としては、闇行為なのである。

これは古橋らに限ったことではない。当時は日本人の大半が闇行為で飢えをしのいでいた。

仲間の一人に、東京出身の佐藤という男がいた。練習で、彼はいつも私より一歩先をいっていた。私は、一日も早くベストを出すんだ、佐藤を追い越すのだ、と自分に言い聞かせながら、毎日いちばん遅くまで泳いでいた。サツマイモをかじり、胸のやけるのを防ぐために、岩塩をなめながら泳いだこともあった。

1947年(昭和22年)の6月に日・立・明三大学対抗水泳大会があり、古橋らは四月から演習を開始した。

水泳部の合宿所には、そのころ30人ほどの部員が住んでいた。およそ1升今でいえば1.4キロの米をおかゆにして30人の部員で食べる。一人平均3勺3分(註 47グラム)にしかならない。米の配給基準は、一人1日2合3勺から、戦後一時期の2合1勺時代を経て、当時2合5勺(355グラム)になっていたが、遅配欠配があいつぎ、しかも代用食のイモや砂糖、魚などが配給される。米の配給は、月に十日分もあればよい方であった。私たちは、イモや麦、それに合宿所の空き地につくっていた野菜、はては食べられる野草まで一緒にナベに入れて飢えをしのいでいた。

1948年(昭和23年)の7月末にロンドンでオリンピックが開かれた。世界記録に近い成績を上げていた古橋たちは参加を熱望していた。しかし、敗戦国の日本とドイツは招待されなかった。日本が参加しなかったオリンピックの水泳ではアメリカが圧勝した。

日本水連の田畑会長はロンドン・オリンピックの水泳日程に合わせて日本選手権大会を神宮プールで開いた。オリンピックは世界選手権でもある。日本選手権の成績がロンドン大会の記録よりすぐれていれば、真の世界王者はオリンピック優勝者にあらずして日本選手権大会の勝者であるという意気込みであった。

8月6日の1,500メートル自由形で、古橋は18分37秒0、同僚の橋爪四郎は18分37秒8というともに世界新記録を樹立した。ちなみに、ロンドン・オリンピックの1,500メートル自由形優勝者はアメリカのマクレーンで記録は19分18秒5であった。なお、8月8日に行われた400メートル自由形で、古橋は4分33秒4の世界新記録で再び優勝した。オリンピック優勝者アメリカのスミスの記録は4分41秒0であった。敗戦国日本が戦勝国アメリカを破ったのだ!しかも世界新記録で!日本中が興奮で沸き返った。

日本水泳界が国際水泳連盟に復帰したのは1949年(昭和24年)6月14日であった。古橋らはこの年の8月16日からロサンゼルスで開かれる全米水泳選手権に招待された。古橋の胸は躍った。古橋の今までの世界最高記録は未公認記録であった。日本の時計は進むのが遅いのではないかと半信半疑に思っていたアメリカ人もいたかも知れない。国際水泳連盟承認の国際舞台で記録を出せば公認される。日本人ばかりか世界が注目した。

8月16日の午後2時半、1,500メートル自由形の予選が始まった。予選A組に登場した橋爪は他を200メートルも引き離して1着でゴールした。記録は18分35秒7の世界新記録。古橋の未公認世界記録を1.3秒上回る記録であった。並みいるアメリカの観客もこの初っぱなの大記録に驚いた。日本の強さはやはり本物だった。古橋は予選B組に出場した。記録は18分19秒0。橋爪の世界新記録の30分後の世界記録であった。翌日に行われた1,500メートル決勝で古橋は優勝した(記録は18分29秒9、橋爪は18分32秒6で準優勝)。1,500メートルでの驚異的な世界記録を目の当たりにしたアメリカの新聞記者は古橋を「フジヤマのトビウオ」と命名した。大会第三日目に行われた400メートル自由形決勝でも古橋が優勝し、日本勢は1位から4位までを独占した。つづいて行われた800メートルリレーでも、日本チームは、アメリカチームが前年ロンドンで作った世界記録8分46秒0を上回る8分45秒4で優勝した。古橋は大会最終日の800メートル自由形にも9分35秒5で優勝した。

古橋は、その著書で、もう一つどうしても紹介したいものがあるとして次のように記している。

青春時代を慢性飢餓状態で過ごしたかたならお判りいただけるだろうし、今日、スポーツ栄養学を学ぼうとされている若い女性の皆さんにも、あるいは参考になるかもしれない。日米対抗に出発する前の合宿のメニューである。マネージャー原秀夫さんの手記によって、合宿中の献立を示すと次のようになる。
(朝) 米1合7勺 玉子1個 味噌汁他1品
(昼) 米1合8勺 2品 肉類を主としたもの、野菜を主としたもの
(夜) 米2合   2品 肉類を主としたもの、果物
甘味の補完としては栄太楼のウメボシ飴のようなものを時々使った。

古橋らは1日に5合(0.7キログラム)の米を食べていた。米5合は2500キロカロリー、タンパク質43グラムを含んでいる。米5合を炊いてメシにすると1.5キログラムになる。1.5キログラムのメシは食えるが、1キログラムのパン(2,640キロカロリーに相当し、93グラムのタンパク質を含む)は一抱えするほどあってとても食えない。メシの水分は60%であるのに、パンの水分は38%しかないからである。パンはパサパサしていて水か牛乳でもないと喉を通らない。

ロサンゼルスの全米選手権大会で圧倒的な強さを見せつけた古橋は21歳であった。ヘルシンキオリンピックの開かれた1952年(昭和27年)には古橋は24歳になっていた。400メートル自由形に出場した古橋は8位に終わった。アメリカで世界的な有名人になった古橋には世界各国から招待状が舞い込んだ。ステーキも食わされたであろう。古橋の食生活は変わってしまったに違いない。

1964年10月に開かれた東京五輪女子バレーボールでは「東洋の魔女」が活躍した。彼女らは全員が戦中あるいは戦後間もなくの生まれである。猛練習の合間におにぎりを頬張る姿を映像でみた。本物のライスボールが彼女らの持久力の源泉であった。女子バレーボールの他に、東京五輪では体操、柔道、重量挙げで金メダルを獲得したが、彼らの力もコメから生まれたと想像する(東京五輪での金メダルは計16)。これには理由がある。

エルウイン・フォン・ベルツは、1876年、日本に招かれ、東京医学校(のちの東京大学医学部)の教師となった。1902年に退職したあとも、宮内省侍医を務め、1905年に帰国した。日本滞在中は、西洋医学の紹介に努める一方、寄生虫病、脚気、公衆衛生、伝染病予防、温泉医学などについての種々の研究を行なった。以下、島田彰夫氏の『食と健康を地理からみると-地域・食性・食文化-』(農文協・人間選書1988)の2節を引用する。( )内筆者。

ベルツが1901年のベルリンの医学会において発表した内容が、同じ年の『中外医事新報』に紹介されている(ベルツ「植物食ノ多衆營養ト其堪能平均トニ就キテ」中外醫事新報第五百十六號1247-1249、明治三十四年九月二十日發行)。それによると、22歳と25歳の人力車夫を雇い、その飲食物を調べながら、80キロの男子を人力車に乗せて、3週間の間、1日40キロずつ走らせたのである。食物は彼らが日常食べていた、米、大麦、ジャガイモ、栗、百合根などで脂肪含量はフォイトの説の半分以下、蛋白質は60から80パーセントで、炭水化物は非常に多いものであった。2週間後の体重測定の結果、一人は不変、他の一人は半ポンド増加していた。そこでフォイトの説に合わせて肉類を加え、蛋白質で炭水化物の一部を補おうと試みたが、疲労が激しく走れなかったので、3日でやめて元の食事に戻したところ、また前のように走れるようになったというものである。

これに続けて、東京から日光までの110キロの道を、馬車で走ったときは、馬を6回取り替えて14時間かかったが、同じ道を54キロの男子を乗せた人力車は、車夫一人で14時間半で走ったというエピソードを紹介し、日本の植物性の食物が素晴らしい能力を発揮させることを述べている。

なお、この中外医事新報にはベルツの言として次のような文章もある。

終ニ付言シテ日本支那ノ主食ハ米ナリトハ誤解ナルヲ擧ゲ日本ニテハ米ハ數年前迄ハ富人社會ノ食物ニシテ農夫ノ如キハ米作スルモ日用ニハ大麦二乃至三分ヲ混和シ若クハ大麦或イハ小麦ヲ食シ又殊ニ味噌ノ原料タル大豆ヲ食スルト云ヒ次ニ大豆ノ効能ヲ述ベ大豆ハ蛋白質ヲ含ムコト良牛肉ニ倍シ其價ハ約四分ノ一ノミ、且ツ脂肪ハ二十%ヲ含メリト

最近のスポーツ選手の体力はいかほどか。お相撲さんに怪我が多い。最近のお相撲さんが1日に食べるコメのメシはどんぶりに2杯位らしい。かつて10杯のどんぶりメシを食べていたというのに。毎日2リットルものミルクを水替わりに飲んで育ったお相撲さんもいるようだ。親御さんが「喉が渇いたらミルクを飲め」と叱咤したという。ビフテキも食う、豚カツも食う、あげくはハンバーガーなどというものも食うお相撲さんもいるようだ。怪我をして当たり前だし、土俵ではすぐ息が上がってしまうのも当然だ。


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