「穀物+大豆+野菜(+魚)」の日本食はがんを予防する。 |
日本人にベジタリアンになれと言いたいのではない。食という行為は健康に生きるためだけのものではない。食は愉楽でもある。「乳製品が美味しい、肉が大好き」という向きはミルクを飲み、肉を食えばよい。そんなことは個人の勝手だ。ただ、「ミルクを健康のために飲む」というのは個人の愚かな行為に過ぎないが、それをことさら宣伝するのは悪徳である。日常茶飯は「穀物+大豆+野菜+(魚)」がよい。肉を食べるのは冠婚祭などの特別の日だけでよい。外食でいただく肉料理の一品も結構だ。たまに食べると一層美味しく味わえる。 余談になるが、「健康のためにタバコを・・・」というのもどうかと思う。司馬遼太郎(1923年、大阪生、代表作に「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「街道をゆく」などがある。文化勲章受賞者、1996年2月、没)は座談会の折に、同席したお医者さんに「司馬先生、そんなにタバコを吸っていると肺がんになりますよ」と言われた。司馬は「私は肺がんにならないために生きているのではありません。いい作品を書きたいのです。いい作品を書くためには、私にはタバコが必要なんです」と答えたという。もちろん、このような言い回しは、司馬のような傑出した人にだけ当てはまることではあるが。喫煙者は「喫煙病」に罹っているが、ことさらに嫌煙をあげつらう人もまた「嫌煙病」患者である。 ところで、日本の「科学者」を自認するお医者さんは患者の食事にほとんど関心がない。近代工業技術の粋をあつめたいろいろな検査機器を使って患者の病気を分類し、病名をつけることに余念がない。大半のお医者さんは、検査して診断し、その診断に基づいて手術をしたり、点滴をしたり、薬を与えたりするのが近代医学を学んだというお医者さんであり、食事療法などというインチキ臭いものは近代医学の牙城たる病院で行うものではないと考えているようだ。高血圧と高脂血症の患者が帰り際に「肉を食べてもいいでしょうか」などと恐る恐る訊ねることがる。お医者さんは、「(そんなことを私に聞くんじゃないよ。ちゃんとくすりを飲んでいればいいんだ)」と内心思いながら、とってつけたように「肉より魚の方がいいでしょう。肉を食べるならできるだけ脂身の少ないところにしなさい」などと答えるだけだ。 1990年にカリフォルニア大学のオーニシュ(Ornish)博士らがアメリカの狭心症患者で「食生活を改めることによって冠動脈疾患が治る」という仮説を実証した(1)。狭心症を訴える患者でかつ血管造影で軽度な冠動脈疾患を確認できた患者をランダムに2群に分けた。半分の患者(対照群)には標準的な治療(アメリカ心臓協会が推奨する食事と禁煙を勧め、必要な場合には薬剤治療も行う)を受けてもらったが、日常生活に対しては特別な介入を行わなかった。他の半分の患者には食生活を変えるように強力に指導した(実験群)。実験群に処方された食事は、脂肪10%以下、タンパク質15-25%、糖質70-75%の構成であった。卵の白身とコップ1杯の無脂肪乳あるいはヨーグルト以外の動物性食品の摂取をを完全に禁じた(完全ではないがほぼベジタリアンの食事)。当然なことながら、喫煙も禁じられた(喫煙したかどうかは血清コチニンの測定でわかる)。また、軽度な運動が処方された(1日30分あるいは1回1時間・週3回のウオーキング)。さらに、呼吸法、瞑想、ヨガなどのストレス軽減の指導を受けた。家族を同伴して週2回グループとして集まり生活を変えるための問題点などを話し合った。ベジタリアンの食事を美味しく調理する講習会も開催した。 がんの予防その1 哺乳類の肉あるいはその分泌物を食べない「ひとは自らの身体にあるものを食物として摂る必要はない。自分の身体に肉もあれば脂肪もある。足りないのはデンプンである。牛、馬、豚などはヒトと同じ哺乳類の仲間である。ひとが哺乳類を食べる必要はない。彼らの身体はヒトの身体と基本的に同じだからだ。哺乳類の肉を食べるということは、ひとが自分の肉を食べることと同じで、他に食うものがないときだけ食べればよい。ひとの食物としては鳥類は哺乳類よりましで、魚類は鳥類に比べてさらによい。ひとの食物はヒトからの遺伝的距離が離れているものほどよい。つまり、ひとの食物としては植物が最高である」と前に述べた。 人間のがんの80%は「予防可能」である(2)。この「予防」の意味は「がんを体内に抱えながらがんでは死なないという」という意味の予防である。前に述べたように、人間の体は毎日食べるものによって変化している。ある細胞の酵素のアミノ酸配列や立体構造は遺伝子によって決まっているが、構成要素のアミノ酸は毎日の食べ物に由来するアミノ酸あるいは体内で新たに合成されたアミノ酸に置き換えられ日々新しくなっている(昔はこれを新陳代謝といった)。心筋細胞が分裂することはないが、その筋繊維の構成要素は常に新しいものに置き換えられている。とくに細胞膜を構成している脂肪酸はそうだ。魚油をたくさん食べれば細胞膜の脂肪酸は魚油の脂肪酸が多くなる。魚にはアミンが多い。魚をたくさん食べるひとの排泄物には魚臭がある。私がカナダのモントリオールに留学していたときに聞いた話であるが、普段魚を食べないカナダ人がトイレに入るとその便器を直前に使ったひとを特定できたという。そのとき、この大学に留学していたアジア人は日本人の私一人であった。 現在の西洋人が定着した地域(北緯50度以北)は、ひとの食用になる穀物の育たない寒冷の地であった。その大地には弱々しい草しか生えない。ひとはその草で生きていけないが、ヒツジやウシは草を食って育つ。ひとはやむなくヒツジやウシを食って生活するようになった。さらにこれらの動物が分泌するミルクを利用するようになって本格的な牧畜が始まった。ミルクの利用なくして牧畜は成り立たない。ミルクがなければ、家畜を屠殺してその肉や内臓を利用するだけである。モンゴルの典型的な遊牧民は夏のミルクを搾れる時は主として乳製品(白食)を利用し、冬になってミルクが出なくなると肉を食べている(赤食)。つまり、ミルクと肉は一体である。 欧米人やモンゴル遊牧民の肉食は日本とは根本的に異なっている。次ぎの竹山道雄の文章を読めばそのことがよく分かる。戦後パリを訪れた竹山道雄はある家庭に滞在したときの経験を次のように語っている(竹山道雄『ヨーロッパの旅』新潮文庫)。 「...こういう(フランスの)家庭料理は、日本のレストランのフランス料理とは大分ちがう。あるときは頚で切った雄鶏の頭がそのまま出た。まるで首実験のようだった。トサカがゼラチンで滋養があるのだそうである。あるときは犢(こうし)の面皮が出た。青黒くすきとおった皮に、目があいて鼻がついていた。これもゼラチン。兎の丸煮はしきりに出たが、頭が崩れて細い尖った歯がむきだしていた。いくつもの管がついて人工衛星のような形をした羊の心臓もおいしかったし、原子雲のような脳髄もわるくはなかった。...」 「あるとき大勢の会食で、血だらけの豚の頭がでたが、さすがにフォークをすすめかねて、私はいった。 |
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