女性ホルモンと男性生殖器

女性の卵巣から分泌されるestradiolは視床下部-下垂体系に作用して下垂体前葉からの性腺刺激ホルモンや黄体形成ホルモンの分泌に対して負のフィードバックをかける(1-4)。性腺刺激ホルモンは、一連の精子形成に重要な役割を演じているSertoli細胞の増殖を制御している。過剰のエストロゲンは男性生殖器官の発達を生理的過程を通じて障害すると同時に、Sertoli細胞の増殖を抑制することによって精子形成を阻害する。動物実験によると、胎仔期のSertoli細胞の数によって成長してからの精巣の大きさや精子数が決まるが(5)、ヒトでは胎児期のみならず思春期を通じてSertoli細胞の質的および量的成長が起こる(6)。

経口的に与えた場合にはラットに不妊を起こすのに要するestradiolは比較的大量である(7)。これは、経口的に与えたestradiolの吸収効率が低いからである。しかし、オスのラットの腹腔内に10 ngのestradiolを与えると、性腺刺激ホルモンの分泌に影響を与えることなく精子が形成されなくなる(8)。このことは、estradiolが発育中の精子細胞を直接障害する可能性を示している。

ラット(0.1 kg)に対する10 ngのestradiolをヒトに当てはめてみる。エストロゲンの作用は体表面積に比例すると仮定する。体表面積は体重(kg)の0.7乗に比例する(9)。0.1 kgのラットに対する10 ngは、20 kgと30 kgの児童に外挿すると、それぞれ410 ngと540 ngに相当する。この外挿をミルク中のエストロゲンにそのまま当てはめることは正しくない。腹腔内に与えられたestradiolは経口的に与えられたものとは生物活性が異なるからである。しかし、ラットとヒトではエストロゲンに対する感受性が異なるだろうし、幼児の感受性には大きな固体差が存在する。また、ミルク中のエストロゲンは生物活性の高いestrone sufateとして存在する。したがって、数百ngのエストロゲンが特に感受性の高い幼児の精子形成に対して悪影響をもたらす可能性を否定できない。

前思春期の少年では体内のエストロゲン濃度が極めて低いので、14歳以下の少年の性的成熟に対するエストロゲンの影響が大きい(10)。Hartmannら(11)の試算によると、ドイツ少年の食品からの1日のエストロゲン(estradiolとestrone)摂取量は80 ngで、その60-70%はミルクあるいはミルク製品に由来するという。しかしながら、Hartmannらは、この80 ngという数値は前思春期の少年のエストロゲン産生量に比べてはるかに小さいので、食品由来のエストロゲンの生体影響は起こらないだろうと結論している。AnderssonとSkakkebaek(10)によると、JECFA(Joint FAO/WHO Expert Committee on Food Additives)が計算した少年の1日当たりのエストロゲン産生量6,500 ng(70)はかなりの過大評価であるという。エストロゲン産生量はエストロゲンの代謝クリアランスと血中濃度から計算されるが、JECFAが採用した代謝クリアランスは成人女性から得られた数値であること、実際の少年の血中濃度より高い数値を計算に用いたことがこのが過大評価の原因である。したがって、食品由来のエストロゲン80 ngは必ずしも無視できる数値ではない。

先に述べたように、日本の少年は牛乳から平均1日100 ngのエストロゲンを摂取している。この数値は牛乳を1日1リットルも飲む少年では数百ngになる。これに加えて、少年は肉(乳牛も肉になる)や卵(雌鶏の産むものであるから当然エストロゲンが含まれている)も食べる。エストロゲンの摂取量はもっと多くなるだろう。

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前立腺がん
日本人が昔から食べ続けてきた穀類あるいは豆類(とくに大豆)などの食品にはdaidzein、genisteinなどの植物ホルモン(phytoestrogen)が大量に含まれている。ラットあるいはマウスをdaidzeinあるいはgenisteinの多い食餌で飼育すると、自然発生あるいは発がん物質で誘発した乳がんと前立腺がんの発生が抑えられ、潜伏期間が延長することが確かめられている(12-17)。

アメリカ人男性に最も多いがんは前立腺がんである(ただし、死亡は肺がんに次いで2位)。しかし、日本人には前立腺がんが少ない。アメリカにおける前立腺がんの年齢調整発生率は人口10万対100.8であるが、日本人の発生率は8.74でアメリカの10分の1以下である。日本人の穀類と大豆を中心にした食生活によるものである可能性がある(18-23)。日本人の1日当たりの植物ホルモンの摂取量は20 mgであるが、西洋人の摂取量は1 mgに過ぎない(24)。これを反映して、日本人の血液中genistein濃度は180 ng/mlもあるが、西洋人では10 ng/mlと低い。しかし、最近、日本人男性の前立腺がんによる死亡が急増している(図1)。前立腺がん死亡率は戦後一貫してほぼ直線的に増加し、過去48年間で25倍にもなった。この死亡率は年齢で調整してあるから、その増加は人口が高齢化したためではない。日本人が死亡にいたる前立腺がんに罹り易くなったことを示している。大豆の摂取量が減ったわけではないから、他の要因が前立腺がんの増加に拍車をかけているのだ。

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前立腺がんとホルモン
男性ホルモン(テストステロンなど)は前立腺の発育に必須である。成人になっても、前立腺が正常に機能するためには男性ホルモンが欠かせない。前立腺がんは精巣摘出、あるいはエストロゲン投与によって一時的に腫瘍が小さくなるなどの理由で、前立腺がんと男性ホルモンとの関連性が論じられてきた(25)。しかし、前立腺がんは60歳未満には稀で、60歳を超えてから加速度的に増えはじめる。60歳以上の男性では、男性ホルモンに対して女性ホルモンが相対的に増える(26)。フィンランドで行われた25年間にわたる追跡調査で、血液中のテストステロン濃度と前立腺がんの間には関係がなかった(27)。日本人に比べてアメリカ人に前立腺がんの多いのはテストステロンに違いがあるのではないかと考えて、アメリカ人と日本人のテストステロン血中濃度を比較してみた研究者もいる。その結果、両国人の間には差はみられなかった(28)。正常な前立腺組織と腫瘍組織がともにアルファ(a)およびベータ(b)エストロゲン・リセプターが発現している(29)。

また、LNCaPという前立腺がん細胞がごく微量のエストラジオール(エストロゲン)で増殖することが明らかにされている(30)。さらに、アンドロゲン・レセプターに結合するホルモンはテストステロンなどの男性ホルモンだけでなく、エストロゲンも結合し前立腺の発育に大きく関与することが明らかにされている(31)。

牛乳が前立腺がんのリスク・ファクターであるという疫学研究はたくさん報告されている(32-41)。一例として、北イタリアで行われた患者-対照研究を紹介する(36)。この研究は、組織学的に確認された96例の前立腺がん患者を患者群とし、急性の非腫瘍性生殖器疾患の292例を対照群として行われた。ミルク消費量が増えるにしたがって前立腺がんのリスクが有意に上昇するという結果が得られた。ミルクを飲まない者あるいは時々しか飲まない者に比べて、1日に2杯以上のミルクを飲む者の相対危険度は5.0(95%信頼区間1.5-16.6)であった。

牛乳が前立腺がんの発生と生長に関係していることは間違いない。しかし、なぜかという問いには答えられなかった。ある研究者は牛乳に含まれている脂肪が原因だとし、他の研究者は牛乳中のカルシウムが原因ではないかと疑っている。脂肪原因説は古くから唱えられ一時的に有力であった(33,34,42-46)。しかし、ハワイ大学のKolonelらは過去の疫学研究の報告を精査し、前立腺がんの脂肪説はかつては有力であったが、最近の研究ではその因果関係を否定する方向にあるという報告をがん研究の有力誌「アメリカがん研究所雑誌」に寄せている(47)。

牛乳で前立腺がんが起こるのは牛乳中のカルシウムが原因であるという主張を行っているのはアメリカ、ハーバード大学のGiovannucciの研究室である(40,48,49)。ビタミンDは体内で活性ビタミンD(1,25-dihydroxyvitamin D)に変わる。活性ビタミンDは細胞の増殖を押さえ、細胞分化を促進する(すなわち、活性ビタミンDががん細胞の増殖を抑制する)。カルシウムの摂取が多くなると活性ビタミンの生成を阻害して、がんの発生を促すというのだ。しかし、ハワイ大学のNomuraらは3,737人の日系アメリカ人について前立腺がんと活性ビタミンDの関係を調べ、両者の間にはなんら関係が認められなかったという疫学研究を報告している(50)。.

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