モンゴル遊牧民の乳搾り

現代の酪農は古来からの伝統的な乳搾りと大きく異なっている。酪農の原点を探るために2000年の夏に中国・内モンゴル自治区の遊牧民を訪ねた。漢民族の農耕地から遠く離れた地域で遊牧を行っているモンゴル人のゲル(遊牧民の移動式住居。中国語でパオ<包>)に泊めてもらって乳搾りを見学した。

モンゴル・ウシの在来種の系統は不明である。内モンゴルのウシの毛色は淡〜濃褐色の単色で、黒色あるいは白黒ぶちのウシは見かけなかった。ホルスタインの巨大な乳房に比べると、小柄なモンゴル・ウシの乳房は貧弱で肉ウシの乳房並みである。モンゴル・ウシは完全な放し飼いで、どちらかというと野生動物に近い。遊牧民は水飲み場を用意する以外にウシの世話をしない。産まれた仔ウシを確保することで母ウシをコントロールしている。当歳の仔ウシを集めて鉄柵に入れておく(2本の棒に渡した綱に仔ウシを一列に繋いでおくところもある)。出産後の母ウシは遠くまで草を食べに出かけているが、朝夕2回乳房が張るという生理的理由で(ウシに聞いたわけではないから、本当のことは判らない)、仔ウシに吸い出してもらうために帰ってくる。

朝夕、母ウシが帰ってくると、集まった母ウシと囲いの中の仔ウシは互いに啼き交わす。仔ウシはミルクが欲しいといって啼き、母ウシは「乳が張って痛いよ、早く飲んでおくれ」といって啼く(のだろう)。啼き声を聞いた遊牧民(女性)はやおら腰を上げて母ウシを柵につなぎ、次いで一頭の仔ウシを外に出す(図13)。

仔ウシは違わず自分の母親のところに駆け寄ってその乳房に吸い付く。仔ウシは頭で母の乳房を突き上げ(ミルクの出がよくなるようだ)、突き上げてミルクを飲む。それを見た遊牧民は母ウシの後脚を縛る(図14)。乳を搾るときに蹴られないようにするのだ。しばらく仔ウシに乳を飲ませてから、仔ウシの頚輪をつかんで少し離れたところに繋ぐ。まず仔ウシに乳首を吸わせないと、母ウシの乳管口が開かないから乳が搾れないのである。

それからやおら搾乳を始める(図15)。片膝を立て、自分の両脚の間にミルク桶をはさんで器用に両手で乳房をしごく。ミルクは勢いよく迸って桶に溜まる。ミルクの出が悪くなるとミルク搾りは終了。搾乳は数分で終わり、乳搾りは実にあっけない。人間用のミルクを搾り終えると、母ウシの両脚を自由にして仔ウシを柵から離す。仔ウシは母親に駆け寄り、再び乳房を突き上げる。これで1頭の母ウシからのミルク搾りは終わりである。

搾られたミルクは1〜3リットルであった(図16)。ついで、別の仔ウシを外に出し、同じことが繰り返される。もちろん、二人以上の搾り手がいるときは搾り手と同数の仔ウシを柵から出す。ミルクを与え終わった母ウシは餌を求めて再び草原に戻っていく。乳房が張ると、また仔ウシのところに戻ってくる。

モンゴルの夏は短い。冬が近付く頃にはすべての子ウシが草を食べるようになっている。遊牧民は枯れ草を集めるが、集めた枯れ草でヒツジやウシを養うわけではない。あくまで緊急用である。モンゴル草原はマイナス30度にもなるが、大雪が降ることは少ない。積もってもたかだか十数センチである。あまりに寒いから雪はさらさらしている。激しい風が雪を吹き飛ばす。ウシやヒツジは雪の下の枯れ草を食む。鼻先で雪を掻き分けながら草を探すのだ。雪が1メートルも降る、あるいは降った雪が凍ったりすると一大事である。鼻面で雪を掻き分けることができない。ヒツジは鼻面を血に染めて、なおかつ氷雪を掘り続ける。2000年の冬には50年振りという大雪が降り、草原には死屍が累々とみられたという。これが「雪害」「凍害」あるいは「白い災害」と呼ばれる悲惨な姿である。遊牧民には何もできない。ただ、死にゆくヒツジの姿を見つめているだけだという。

モンゴルのウシは4月か5月に出産する(図17)。仔ウシが育ってくると、母ウシは7月から8月にかけて自然交配によって妊娠する。妊娠するとミルクの分泌が悪くなる。乳房が張らないから母ウシは子ウシのところに帰ってこなくなるから乳搾りができない。母親のミルクを飲みたがる子ウシもいるが、妊娠したウシは乳首を求める子ウシを追い払う。子ウシはやむをえず草を食べるようになる。ただし、妊娠しそこなったウシは10月ごろまでミルクを分泌するが、モンゴル人が妊娠しているウシからミルクを搾ることはほとんどない。搾ろうにもミルクが出ないのである。したがって、モンゴルのミルクに含まれている女性ホルモンは必然的に少ない。

遠見のモンゴルの草原は美しい。緑一色の草原で草を食むヒツジの群れはまさに「草原の真珠」である。しかし、草原に入って足下をみると10〜20センチほどの弱々しい草が疎らに生えているだけだ。草のなかには白、黄、紅色の可憐な花をつけているものもある。淡い紅紫色の花をつけた草を手折るとニラの匂いがする。大地に伏すと香気が漂う。ヨモギかラベンダーに似た香りだ。

草原は砂漠に近い。モンゴルの遊牧民は草原を掘り起こして植物を栽培するということをしない。一旦、鋤鍬を入れると、薄っぺらな表土は風に散って完全な砂漠となってしまうからだ。根を張る草が辛うじて遠見の緑の草原を維持している。モンゴル民族は漢民族を嫌った。漢人が大地を掘り起こすからである。なお、モンゴル遊牧民は野菜を食べない。青物はヒツジの食べるものであって、人間の食べ物ではないという。

モンゴルの遊牧の主役はヒツジである。ヒツジの群れに1、2頭のヤギを入れている。ヒツジはヤギのあとについて行動する。ヤギは忙しく動き回る。ヤギがいないと、ヒツジは腰を落ち着けて根っこまで食べ尽くしてしまう。ヤギもまた草原の維持に一役買っている。

お世話になった遊牧民のゲルで1頭まるごとのヒツジをご馳走になった。そのときの体験を述べておく。ヒツジは実におとなしい動物だ。ヒツジを屠ふるときは、まずヒツジを仰向けにする。遊牧民は左足でヒツジの両後脚を押さえ、左手で両前脚を確保する。右手の小刀で前胸部の中央を10センチほど切り割く。小刀を脇に置き、右手をヒツジの胸の中に突っ込む。右手親指の爪で下大動脈に割を入れる。動脈から血液が奔出して胸腔を満たす。この間、ヒツジは鳴き声一つあげない。静かに出血死する。一滴の血液も大地を汚すことはない。あまりにも厳粛で、カメラを構えることができなかった。

しばらくしてから(胸腔内の血液が固まる)、遊牧民は素早くヒツジの皮を剥ぐ。ついで解体する。実に素早い。それぞれの関節に刀をいれ、頭部をはずし、脚をはずす。その頃には草原の一隅でナベの湯が煮たぎっている。燃料は牛糞である。乾燥した牛糞は繊維の固まりで臭いはない。風に煽られて実によく燃える。骨付きのヒツジ肉を煮る。頭部も肋も脚もすべて一緒に煮る。塩も加えないから茹でると言った方がよいのかも知れない。血液は小腸に詰めてソーセージにする。日本人が小魚を頭からまるかじりするのと同じでヒツジのすべてを食べる。

接待してくれた遊牧民は2つのゲルを所有していた。私たちが泊めてもらったゲルでモンゴルの宴を催してくれた。ゲルには親類縁者が集まってきた。近隣の人たちも集う。近隣といっても5〜30キロは離れている。ウマで来る人もいたが、颯爽とバイクに乗ってやって来る若者もいた。

ゲルの骨格は木組みで、フェルトで覆われている。一番高いところが4メートルほどある。ゲルの入口は120x80センチほどの長方形で、腰をかがめて出入りする。招待されたゲルは20畳ほどの広さで、床にはフェルトの絨毯が敷き詰められていた。ゲルの中央から少し入口よりにほぼ正方形の土間があり、角形のストーブが置かれていた。燃料は牛糞と馬糞である。ゲルの天井には直径1メートルほどの穴があいており、明かり取りになっている。ストーブの煙突もこの穴を通して外に出ている。ゲルの柱は赤く塗られており、タンスなどの調度品も赤色が多い。電燈もぶら下がっていたし、ラジカセもあった。電源はゲルの脇に置かれている自家発電機であった。男はあぐら、女性は片膝を立てて座る。しかし、客をもてなすときにゲルで飲み食いするのは男性で、女性はもっぱら接待にあたる。女性たちは隣のゲルで食事をしていた。

茹であがった骨付き肉は大きな皿に盛られて客の前に置かれる。主客の皿にはアバラ肉が並べられていた。脂がのって一番美味しいところだ。その上にヒツジの頭部が載せられている。頭頂部に一片のチーズが載っている。主客はそのチーズを拇指と薬指でつまみとり、上にとばし、下に投げ、自分の額にこすりつける。天と地と人間に感謝するという儀式である。

それから宴が始まる。銘々に小刀が渡されている。大皿の胸壁から1本の肋骨を切り取り、小刀で肉をこそぎ取り口に運ぶ。なかなかうまくいかない。日本人の仕草をみて、みんなが笑う。左隣りのホストは両手で肋骨を水平に支えて歯で肉をかじり取ってみせてくれる。さっそく小刀を脇に置いて、肋骨にかぶりつく。ヒツジ肉に独特の臭みがほとんどない。ヒツジが草原のニラを食べているからだという。ただし、成獣だから肉は弾力性がある。ホストは肋骨の骨膜を小刀で剥ぎ取って食べている。驚いてみていると、歯で同じことをしてみせた。

この一家は馬乳酒(アイラグ)をつくっていなかった。忙しくてウマの乳をしぼる余裕がないということだった。漢人のもたらした酒だろうか、高粱(こうりゃん)を原料とする、アルコール分40%の蒸留酒を金属製の大きめの盃で飲む。酒を飲むときは、お互いに目を合わせ盃を捧げる仕草をしてから一気に飲み乾す。飲み終わったあと、お互いに盃の底を見せ合うのは中国伝来の習慣か(中国の東北でもよく行われる。元来はモンゴルの風習であったのかも知れない)。暑くなると、手を伸ばしてゲルを覆うフェルトを捲りあげる。風が入って涼しくなる。ゲルの隙間から子供たちが腹ばいになって覗いている。宴たけなわになると、モンゴルの民族衣装で華やかに装おった若い女性と子供が唄をうたう。透明で涼やかな高音だ。節回しは時に長閑、時に激しく、時に悲し気で、どこか日本の民謡に似ている。

酔いつぶれて眠っている夜中に雨が降った。隣のパオから主婦が跳び込んできて、煙突をはずして外に出し、屋根から下がっている紐を引っ張った。バタンという音とともに見事に天井の丸穴がフェルトで塞がった。7月末の真夏であっても、昼間は暑いが朝方は寒い。10度以下に冷え込む。洗顔用の水は砂混じりである。歯磨きは持参したミネラルウオーターを使った。日本人は水を飲んだが、遊牧民は飲まない。彼らの飲み物は専ら塩入りのミルクテイーである。モンゴル人が搾った生の牛乳をそのまま飲むことはない。牛乳はすべて桶に入れて酸乳、バター、チーズをつくる。


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