モンゴルの遊牧

モンゴル遊牧民の生活

2000年と2001年の夏にモンゴル遊牧民の高血圧、高脂血症、糖尿病の実態調査を行った。そのときパオ(包の中国語読み、モンゴル語ではゲルという)で羊を1頭まるごとご馳走になった。そのときの体験を述べる。羊は実におとなしい動物だ。羊を屠ふるときは、羊を仰向けにする。遊牧民は左足で羊の両後脚を押さえ、左手で両前脚を確保する。右手の小刀で前胸部の中央を10センチほど切り割く。小刀を脇に置き、右手を羊の胸の中に突っ込む。右手親指の爪で下大動脈に割を入れる。動脈から血液が奔出して胸腔を満たす。この間、羊は鳴き声一つあげない。静かに出血死する。一滴の血液も大地を汚すことはない。しばらくしてから(胸腔内の血液が固まる)、遊牧民は素早く羊の皮を剥ぐ。ついで解体する。実に素早い。それぞれの関節に刀をいれ、頭部をはずし、脚をはずす。その頃には草原の一隅でナベの湯が煮たぎっている。燃料は牛糞である。乾燥した牛糞は繊維の固まりで臭いもない。風に煽られて実によく燃える。骨付きの羊肉を煮る。頭部も肋も脚もすべて一緒に煮る。塩も加えないから茹でると言った方がよいのかも知れない。血液は小腸に詰めてソーセージにする。

接待してくれた遊牧民は豊かで2つのパオの所有者であった。私たちは大きい方のパオに招かれた。パオには親類縁者が集まっている。近隣の人たちも集う。近隣といっても30キロは離れている。馬で来る人もいるが、颯爽とバイクに乗ってやって来るものもいる。パオに入ると真先に客に出されるのが塩入りミルクテイーである。

パオの骨格は木組みで、フェルトで覆われている。一番高いところが3メートルほどある。パオの入口は1メートルx 60センチほどの長方形で、腰をかがめて出入りする。パオは円形で20畳ほどの広さである。床には絨毯が敷き詰められている。中央から入口よりにほぼ正方形の土間があり、角形のストーブが置かれている。燃料は牛糞と馬糞である。パオの天井には直径1メートルほどの穴があいており、明かり取りになっている。ストーブの煙突もこの穴を通して外に出ている。柱の棒は赤く塗られており、タンスなどの調度品も赤色が多い。電燈もぶら下がっていたし、ラジカセもあった。電源はパオの脇に置かれている自家発電機である。男はあぐら、女性は片膝立てで座る。しかし、客をもてなすときにパオで飲み食いするのは男性で、女性はもっぱら接待にあたる。女性たちは隣のパオで食事をしていた。

茹であがった骨付き肉は大きな皿に盛られて客の前に置かれる。主客の皿にはアバラ肉が多い。脂がのって一番美味しいところだそうだ。その上に羊の頭部が載せられている。頭頂部に一片のチーズが載っている。主客はそのチーズを拇指と薬指でつまみとり、上にとばし、下に投げ、自分の額にこすりつける。天と地と人間に感謝するという儀式である。それから宴が始まる。銘々に小刀が渡されている。大皿の胸壁から1本の肋骨を切り取り、小刀で肉をこそぎ取り口に運ぶ。なかなかうまくいかない。日本人の仕草をみて、みんなが笑う。左隣りのホストは両手で肋骨を水平に支えて歯で肉をかじり取ってみせてくれる。さっそく小刀を脇に置いて、肋骨にかぶりつく。羊肉に独特の臭みが薄い。羊が草原ニラを食べているからだという。ただし、成獣だから肉は弾力性がある。ホストは肋骨の骨膜を小刀で剥ぎ取って食べている。驚いてみていると、歯で同じことをしてみせた。

この一家は馬乳酒(アイラグ)をつくっていない。忙しくて馬の乳をしぼる余裕がないということだった。こうりゃんを原料とする蒸留酒を金属製の大きめの盃で飲む。酒を飲むときは、お互いに目を合わせ盃を捧げる仕草をしてから一気に飲み乾す。飲み終わったあと、お互いに盃の底を見せ合うのは中国伝来の習慣か(中国東北でよく行われる。元来はモンゴルの風習であったのかも知れない)。暑くなると、手を伸ばしてパオを覆うフェルトを捲りあげる。風が入って涼しくなる。パオの隙間から子供たちが腹ばいになって覗いている。宴たけなわになると、モンゴルの民族衣装で華やかに装おった若い女性と子供が唄をうたう。透明で涼やかな高音だ。節回しは時に長閑、時に激しく、時に悲し気で、どこか日本の民謡に似ている。

酔いつぶれて眠っている夜中に雨が降った。隣のパオから主婦が跳び込んできて、煙突をはずして外に出し、屋根から下がっている紐を引っ張った。バタンという音とともに見事に天井の丸穴がフェルトで塞がった。7月末の真夏であっても、昼間は暑いが朝方は寒い。10度以下に冷え込む。洗顔用の水は砂混じりである。歯磨きは持参したミネラルウオーターを使った。日本人は水を飲んだが、遊牧民は飲まない。彼らの飲み物は専ら塩入りのミルクテイーである。搾った生の牛乳をそのまま飲むことはない。テイー用を除いて、牛乳はすべて桶または壷に入れて酸乳、バター、チーズをつくる。

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モンゴルの乳搾り

モンゴル牛は小柄である。ホルスタインの巨大な乳房に比べると、モンゴル牛の乳房は貧弱である。モンゴル牛は完全な放し飼いで、どちらかというと野生動物に近い。遊牧民は水飲み場を用意する以外に特別な世話をしない。遊牧民は産まれた仔牛を確保することによって母牛をコントロールする。出産後の母牛は遠くまで草を食べに出かけているが、朝夕2回乳房が張るという生理的理由で(ウシに聞いたわけではないから、本当のことは判らないが)、仔牛に吸い出してもらうために帰ってくる。

朝夕、母牛が帰ってくる頃になると、当歳の仔牛を集めて鉄柵に入れておく(仔牛を一列に綱に繋いでおくところもある)。集まった母牛と囲いの中の仔牛はお互いに鳴き交わす。仔牛はミルクが欲しいといって鳴き、母牛は「乳が張って痛いよ、早く飲んでおくれ」といって鳴く(のだろう)。鳴き声を聞いた遊牧民の女性はやおら腰を上げて柵に近付き、一頭の仔牛を外に出す(図1)。仔牛は違わず自分の母親の乳房に食らい付く。仔牛は頭で母の乳房を突き上げ、突き上げ(ミルクの出がよくなるようだ)、ミルクを飲む。それを見た遊牧民はまず母牛を柵に結び付ける。ついで母牛の後脚を縛る(図2)。乳を搾るときに蹴られないようにするのだという。しばらく仔牛に乳を飲ませてから、仔牛の頚輪をつかんで少し離れたところに繋ぐ(図3)。それから搾乳を始める(図4)。片膝を立て、両脚の間にミルク桶をはさんで片手で乳房をしごく。ミルクの出が悪くなるとミルク搾りは終了。搾乳時間はおよそ5分ほどで実にあっけない。ミルクを搾り終えると、母牛の両脚を自由にする。仔牛を柵から離す。仔牛は母親に駆け寄り、再び乳房を突き上げる。これで1頭の母牛からのミルク搾りは終わりである。

搾ったミルクは1-3 Lであった(図5)。ついで、別の仔牛を外に出し、同じことが繰り返される。もちろん、搾りてが二人以上いるときは搾りてと同数の仔牛を柵から出す。ミルクを与え終わった母牛は餌を求めて再び草原に戻っていく。乳房が張ると、また仔牛のいるところに戻ってくる。

冬が近付くと、遊牧民は枯れ草を集める。しかしこの集めた枯れ草で羊や牛を養うわけではない。あくまで緊急用である。モンゴル草原はマイナス30度にもなるが、雪はあまり降らない。積もってもたかだか数十センチである。あまりに寒いから雪はさらさらしている。牛や羊は雪の下の草を食む。鼻先で雪を掻き分けながら草を探すのだ。雪が1メートルも降る、あるいは降った雪が凍ったりすると一大事である。鼻面で雪を掻き分けることができない。羊は鼻面を血に染めて、なおかつ氷雪を掘り続ける。2000年は50年振りという大雪が降り、草原には死屍が累々とみられたという。これが「雪害」あるいは「白い災害」と呼ばれる悲惨な姿である。遊牧民には何もできない。ただ、死にゆく羊の姿を見つめているだけだという。

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モンゴルの大草原

遠見のモンゴルの草原は美しい。緑一色の草原で草を食む羊の群れは「草原の真珠」である。しかし、草原に入って足下をみると10-20センチほどの弱々しい草が疎らに生えているだけだ。ところどころに白、黄、紅色の可憐な花をつけた草もある。うす紅色の花をつけた草を手折って嗅いでみるとニラの匂いがする。大地に伏してみると、香気が漂う。よもぎかラベンダーに似た香りだ。

草原は砂漠に近い。モンゴル遊牧民は草原を掘り起こして植物を栽培するということをしない。一旦、鋤鍬を入れると、薄っぺらな表土は風に散って完全な砂漠となってしまうからだ。根を張る草が辛うじて遠見の草原を維持している。羊の群れに1、2頭の山羊を入れている。羊は山羊のあとについて行動する。山羊は忙しく動き回る。山羊がいないと、羊は腰を落ち着けて根っこまで食べ尽くしてしまう。山羊もまた草原の維持に一役買っている。モンゴル民族は漢民族を嫌った。漢人が大地を掘り起こすからである。なお、モンゴル遊牧民は野菜を食べない。青物は羊の食べるものであって、人間の食べ物ではないという。日本人が魚をまるかじりするのと同じで羊のすべてを食べる。

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