乳糖分解酵素(ラクターゼ)活性持続症

すべての哺乳類は、離乳後は親が食べているような固形食物から栄養を摂るようになる。これは自然の経過であって、すべての哺乳動物に共通して認められる食行動の変化である。



牛乳に含まれている糖質は乳糖(ラクトース)である。乳糖は2糖類の糖質で、2つの単糖類(ガラクトースとグルコース)から構成されている。乳糖は乳汁以外には自然界に存在しない。人乳中のラクトースは100 g中7.2 gで全哺乳類のミルクのなかで最も含有量が多い(牛乳は4.4 g)。なぜ、哺乳類のミルクに乳糖が存在するのか明らかではないが、乳児で急速に発達する脳髄や細胞壁の構築のため、これらの成分として多量のガラクトースが要求されるかららしい(牛乳成分の特性と健康1993年6月、光生館)。ただし、成人では必要なガラクトースは肝臓においてグルコースから作られるので乳糖を必要としない。乳汁中のラクトースは小腸上半部(空腸)の粘膜上皮に存在する乳糖分解酵素ラクターゼ(正式にはb-ガラクトシダーゼ)によってガラクトースとグルコースに加水分解される。これら二つの単糖類は小腸上皮に存在する糖輸送系によって吸収される(細胞内に入る)。したがって、乳糖の利用にはラクターゼが重要な役割を演じている。

離乳期以降はこのラクターゼ活性は急速に低下する。ラクターゼ活性の低いひとが牛乳を飲むと、乳糖は分解されないまま腸内細菌の多い大腸に達する。腸内細菌は乳糖の一部を分解して乳酸、酢酸、ギ酸などの有機酸をつくり、ギ酸は炭酸ガスと水素に分解する。これらの有機酸が腸壁を刺激して腹痛を起こし、ガスは腹鳴、腹部膨満感、鼓張の原因となる。腸内細菌による分解を免れた乳糖は、その高浸透圧性によって、腸管の水分吸収を妨げるとともに腸壁から水分を吸いとって腸内容物を水様便として下痢を誘発する。これが西洋人が名付けた「乳糖不耐症」である。離乳後は牛乳が飲めなくなることは正常な発達過程である。この「乳糖不耐症」なる用語はあまりにも西洋中心主義的で不適切である。本編では離乳後も生涯にわたって牛乳を飲める状態を「ラクターゼ活性持続症(lactase persistence)」と呼ぶことにする。

すべての哺乳類は、離乳後は親が食べているような固形食物から栄養を摂るようになる。これは自然の経過であって、すべての哺乳動物に共通して認められる食行動の変化である。日本人のラクターゼの活性は14-15歳で乳児期の10分の1に低下し、以後ずっと低い活性のままで経過する。日本人の中にも、牛乳を飲み続けることによって、牛乳が飲めるようになるひとがいる。飲乳によるラクターゼ活性の誘導と腸内細菌叢の変化が乳糖への適応をもたらすものと考えられる。しかし、この適応は不完全であって、大量の牛乳を飲めば腹部の不快症状が発生する。

このように考えると、なぜ、ミルクが乳糖を含むのかとということに関して仮説が提示できる。乳糖は、自然界には、哺乳類のミルクの中にだけ存在する。生まれた子どもがいつまでもミルクを飲んでいると、母親は次の子どもを胎内に宿すことができない。排卵が起こらず妊娠できないからだ。ある年齢に達した子どもがミルクを飲むと、乳糖分解酵素の活性が低下しているために、お腹が痛くなってミルクを飲めなくなる。そこで親が食べているような食物をミルクの換わりに食べるようになる。これが、すべての哺乳類に備わる離乳機構である。哺乳類が子孫を残せるように、ミルクが乳糖という特別の糖質を含むようになったのだ。ミルクは生後の一定期間だけ子どもが飲めるようになっているのである。

ヒトのなかには離乳期以後もラクターゼ活性が高く保たれたままのひと達がいる。このひと達は、生涯にわたって腹部不快感を起こすことなく大量の牛乳が飲める。そのほとんどは皮膚の色の薄い西洋人である。西洋人は、成人して牛乳が飲めない正常なアジア・アフリカ人を指して「乳糖不耐症」というが、大人になっても牛乳が飲めるという方が異常であって、西洋人ほとんどは「ラクターゼ活性持続症」であるとも言える。

ラクターゼ活性持続症の集団は、約8,000年前にメソポタミアの「肥沃な三日月地域」において突然変異によって出現したと云われている(1)。この集団が北の日照時間の短い、寒冷な地域に移動した。わずかな太陽光の有効利用のために皮膚の色が薄くなる突然変異が選択された(コーカソイド)。この変異集団はタンパク質とカルシウムを濃厚に含む牛乳を用いることが生存要件であった。ラクターゼ活性持続症は小麦と牛乳(およびバターとチーズ)を基本とする食生活を可能にしてこの突然変異種の生存を支えてきた。哺乳動物で、離乳後もミルクを飲むのは一部の人類だけである。言い換えれば、現在の西洋人は、離乳後もミルクを飲めるようになった人類の一変種の子孫である。

北方アジア(乾燥した半砂漠地帯で、弱々しい草が生える)に移動したモンゴロイドは牧畜の技術に出逢い遊牧を始めた。このひと達(現在のモンゴル民族の祖先)は6-10月はミルク(前述のように食用にするのはチーズ、バター、ヨーグルトで全乳を食用にすることは少ない)を主食とし(白食という)、11-5月のミルクが出ない時期は主として肉(主として羊肉)を食べた(赤食)。馬、牛、羊、山羊、ラクダなどで衣食住のすべてを賄った。なお、馬乳の乳糖濃度は6.3%と高いので、これを発酵させて馬乳酒(アイラグ)を作った。もちろん、交易によって得た麦・粟なども食用にしたが、その消費量はわずかであった。現在でもモンゴル人の穀物由来のエネルギーは全エネルギーの30%に過ぎない。翻って東南アジアに移動したモンゴロイドはどうか。彼らが生存し繁殖するために、哺乳動物の肉やミルクを利用する必要はなかった。この地域は食用になる果実類、堅果類、根菜類の豊富なところであった。野生動物・昆虫などは貴重なタンパク質源として利用しただろうが、哺乳動物の分泌液であるミルクを食用にすることなど思いも及ばなかったことだろう。

日本人の原祖先は狩猟で生活していた北方モンゴロイド(ブリアート人の近縁)と言われている。彼らの移り住んだ日本の大地は森林地帯であった。彼らの生活は必然的に狩猟(動物食を中心)から採集(植物食を中心)へと変わらざるをえなかった。続いて南方(揚子江周辺)から稲作技術を携えたモンゴロイドが日本列島に移住した。縄文時代にはすでに日本で稲が栽培されていたらしい。その後、朝鮮半島からより高度な稲作技術をもった民族が日本に到来し、稲作が西日本全体に広がった。これが弥生時代である。大和朝廷の征夷とは稲作を広げる事業に他ならなかった。

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参考文献

1. Simoons FJ. The geographic hypothesis and lactose malabsorption. A weighing of the evidence. American Journal of Digestive Diseases. 23: 963-80, 1978

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