低血糖事故を防ぐ道 降下剤の使用抑制が最も有効
二宮陸雄
朝日新聞 昭和49年12月25日

前途青年が一夜にして廃人化する。重症低血糖事故は悲惨である。

経口血糖降下剤、特に事故が頻発しているスルホニル尿素剤には、血中の糖濃度を下げる強力な作用がある。もし糖尿病でない人や軽症の糖尿病者が服用すると、血糖は極度に低下し、脳細胞がおかされて意識障害を起こす。この状態がある時間続くと脳細胞はもはや回復しない。幸いに一命をとりとめたとしても、一夜にして人間としての高等な感情も知性も失ってしまう。

十数年前、この薬が爆発的に使用されて以来、それまでインスリン注射や食事療法で治療していた患者の多くに、手軽な内服薬が与えられた。その結果、重症低血糖事故の報告はいまや百六十例を超え、死者二十余人、廃人になり破局的生活に陥ったもの十余人が報告されている。

いうまでもなく、これは氷山の一角である。北海道および中国地方の一部病院のアンケート調査をもとにして推定すると、全国では重症低血糖事故が少なくとも七百件、死者五十人、後遺症に苦しむ人百人と考えられる。

なぜこのような事故が多発するのか。その病根は深くて複雑である。

第一に、製薬会社の誤った販売姿勢がある。医家向けの宣伝パンフレットには、数十例の事故をおこし、何人もの死者を出している製剤でさえ。「低血糖の危険は少なく安全である」と大書し、事故の危険についての警告はおろそかである。法令に定められた厚生省への副作用報告も有名無実だった。

第二に、そのような誤った情報下に医師も極めて安易にこの薬を処方している。尿糖陽性者は以外に多いもので、そのうち二割くらいの糖尿病者を除けば、ほとんどが腎(じん)性糖尿と呼ばれる無害な糖尿である。この腎性糖尿者にこの薬を与えれば、惨劇が起きるのは火を見るよりも明らかである。これは、本年春から義務づけられた学童の検尿に関して、専門医が深く憂慮しているところである。

第三に厚生省及び薬事審議会の姿勢が問われる。日本で初めて血糖降下剤が認可された時点から、その副作用に対する薬事行政が患者保護の立場からほど遠かったことは有害なBZ55の認可や虚偽に満ちたPRの放置などの諸事実が示している。腎性糖尿への投与禁止の指示も事故多発後ようやく行われた。

低血糖事故を防ぐための現時点での方策は、@血糖検査で糖尿病の診断を確かめA食事療法ののちに投薬の必要の有無を考慮しB投薬後は一般に血糖降下作用が極めて長時間続くことや低血糖の症状と対策について十分に指導することである。

最近米国では、事故は別にしてもこの薬は有害であり、その使用は好ましくないとの立場が浸透しており、学会、医師会および食品医薬品局(FDA)は食事指導やインスリン注射で治療し、この薬を使用しないよう公的見解を表明している。これは、十二の大学が二十億円の巨費と十年の歳月をついやして行った比較対照試験の結果、この薬が心臓血管死を増す危険性があるとの報告に基づいている。

現在、米国の指導的医学書は、いずれもこの薬を使用すべきでないと記している。同じ見地からFDAは、この薬が心臓血管死を増す危険があると各製剤の能書きに掲載させている。二年前から発売され、現在わが国で最も多く使われているグリベンクラミドという薬をFDAがいまだに認可しないのも、長期使用後に初めて副作用が指摘される時点までに、利益と人命とを食い逃げするのを防ぐためである。

経口血糖降下剤はインスリンに劣るものであり、糖尿病者の余命を延長する効果も確認されていない。政府と学会は速やかに事故の実態を調査し、対策と救済にあたるべきである。

(内科医・糖尿病学会評議員)


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