馬尿ホルモン:プレマリン
その昔、帝国臓器製薬会社がオバホルモンという「天然純粋女性ホルモン」を馬の尿からつくっていた。オバホルモンは妊娠馬の尿中に含まれている硫酸エストロンを主成分とする女性ホルモン(エストロゲン)を濃縮、抽出したものであった。効能に女性の生理痛だけでなく不眠疲労防止・作業力振起にも有効と謳われたからよく売れて、大量の原料確保が必要になった。そこで、馬の飼養数の多い北海道が馬尿の供給地に選ばれた。 帝国臓器は昭和18(1943)年、芽室町に妊娠馬の尿中ホルモンの抽出のために十勝工場を開設した。十勝の農家から集められた馬尿は、各地に設置された小規模の処理施設で濃縮された。濃縮尿はさらに十勝工場で処理され、川崎市の工場に送られてオバホルモンが製品化された。 馬の妊娠期間は11か月(330日)である。馬は季節繁殖動物で、春に妊娠して翌春に出産する。胎子胎盤から分泌される硫酸エストロンの尿中濃度は妊娠後半(10月から翌年の3月)に高くなる。妊娠馬の尿は牛乳より高値で引きとられたから、農閑期の農家には格好の収入源となった。冬になると採尿用の樽が配られ、各農家から集められた尿が馬車や馬橇で工場へと運ばれた。妊娠馬からの採尿は十勝地方の全域で行われていた。 尿を集めることはそんなに難しい仕事ではなく、子どもにもできる仕事であった。長い柄をつけた大きな杓で採尿した。馬の排尿に合わせて杓で尿を受けるにはそれなりの工夫が必要であったが、たびたび採尿するうちに馬が慣れて、飼い主が杓を近づけると、馬がそれに合わせて排尿するようになったという。 ウェブに紹介されている「鹿追町史:馬尿からホルモン剤」によると、鹿追町につくられた処理工場では、直径1・5mほどの大きな釜を5個並べ、これに集荷した妊娠馬の尿を投入して煮詰めるという作業が行われていた。工場はこの濃縮尿を芽室の抽出工場に送り出した。 妊娠馬尿の採取と煮詰め処理は十勝に馬尿景気をもたらしたが、やがて海外で生産されたプレマリンという馬尿ホルモンが輸入されるようになって十勝での馬尿需要が減少した。さらに、農家の機械化が進んで、馬の飼養数も減った。帝国臓器十勝工場は昭和32(1957)年に閉鎖された。 では、このプリマリンとは一体何か。1889年、ブラウン・セカール(Brown-Sequard)というフランスの神経生理学者が、72歳のとき、自らイヌの睾丸エキスを注射して、気力・体力・精力が増強したと発表した。彼は、男性には睾丸エキスだが、女性には卵巣エキスに同様の効果があるだろうと予言した。その後、ブラウン・セカールの予言は現実のものとなった。卵巣や胎盤のエキスに更年期女性のほてりを冷ます効果のある女性ホルモン(エストロゲン)の存在が明らかになったのである。 妊婦の血液や尿にエストロゲンが含まれていることも知られるようになった。1930年ごろ、アメリカで、妊娠後期の女性の尿から抽出された物質が経口で効くエストロゲンとして更年期症状の治療に用いられた。しかし、この抽出物はあまりにも高価だったので、それに替わるものが探索された。動物園で妊娠動物を調べたところ、馬の尿に水溶性のエストロゲン(結合型エストロゲン)が高濃度に含まれていることがわかった。 馬尿の抽出物は、1942年、製薬会社ワイス(Wyeth)からプレマリン(premarin)という名で製造販売された。プレマリンの主成分は硫酸エストロンで、服用で効果のある結合型エストロゲンの代表的な製品である。因みに、プレマリンという登録名は原料の妊娠馬尿(pregnant mare’s urine)に由来する。 1960年ごろから更年期症状を訴える女性にホルモン補充療法が盛んに行われるようになったが、実際にはエストロゲンの補充療法であった。使われたエストロゲンは経口で効果のある、妊娠馬尿からつくられるプレマリンであった。プレマリンは、更年期症状の緩和だけでなく「若さ、女性らしさを保つくすり」と宣伝されたから、更年期を迎える女性に絶大の人気があった。 その後、事態は暗転した。1975年、エストロゲン補充療法によって子宮内膜がんが増えるという報告がNew England Journal of Medicineに掲載されたのである*。結合型エストロゲン(プレマリン)によって内膜がんが5-14倍に増えるという内容であった。プレマリンの処方は急落した。 医学者はこの問題に簡単な解決法を見いだした。それは、エストロゲン単独ではなく、もう一つの女性ホルモンである黄体ホルモン(プロゲステロン)と併用するという方法であった。自然界ではエストロゲンが単独で働いていることはない。常にエストロゲンとプロゲステロンが共働しているというのが、その発想の原点であった。 1980年には、子宮が摘出された女性(子宮がんが発生しない)を除いて、更年期の女性に対するエストロゲンの単独使用は行われなくなり、プレマリンと合成黄体ホルモンの合剤(代表的な製品はプレンプロ)が更年期の女性に使われるようになった。 その後、エストロゲンには血清コレステロールを下げる効果のあることが報告され、更年期後の心疾患の予防にもプレマリンの適用が広がった。さらに1986年、アメリカ食品医薬品局(FDA)が骨粗鬆症の予防に有効としたことから、ホルモン補充療法が激増し、競合する他社のエストロゲン製剤を斥けたプレマリンはアメリカで最も多く使われる医薬品の一つとなった。 ホルモン補充療法には短期的に更年期症状の緩和という治療効果があるが、長期的に眺めるとその功罪は相半ばしているのではないかという疑問があった。そこで、1990年代に、アメリカ国立衛生研究所(NIH)はホルモン補充療法を受ける女性と受けない女性とで健康状態を比較する大規模な臨床比較研究を行った。その結果は衝撃的であった。 心疾患などの慢性疾患との関連で行われた研究では、ホルモン剤としてプレンプロが用いられた。プレンプロによって、大腸がんと骨折は減少したが、乳がん、心疾患、脳卒中、静脈血栓が増加した。その結果、プレンプロは利益よりも損失が大きいとして、研究に参加した女性はその服用を中止することになった。さらに、2003年にはプレンプロによって65歳以上の女性に認知障害が2倍に増えるという結果が報告された*。こうして「若さと健康を永遠に」というエストロゲン信奉者の夢は粉々に砕かれることになった。 |