現代医療

一般人はメデイアに踊る「驚異的な医学の進歩」という文字・言葉を目の当たりにして現代医学の卓越性を信じて疑わない。司馬遼太郎の言葉を借りれば、「現代医学の重厚なメカニズムの中に入って、医者の側の論理に身をゆだねている」ということになる。医療の本質は不確実性にある。昨今の医療が不確実である(あてにならない)といっているのではない。現代医療は、医療行為に対する人間の心身の反応が不確実であることを基本的原理として成立しているのだ。読者も「証拠に基づいた医療(ebidence-based medicine)という言葉をお聞きになっただろう。
証拠とは何か。先に述べた「くじびき臨床試験」から得られたものが証拠である。ある病気に対してAとBの2種類の治療法があって、Aがその病気に対する標準的治療法となっているとしよう。AとBを用いて「くじびき臨床試験」を行い、5%の危険率でAの方が治療効果が大きかったのでAを「証拠に基づいた治療法」として採用したのである。5%の危険率というのは100人のうち5人にAが効かないということではない。同じような「くじびき臨床試験」を行うと20回のうち1回ぐらいは「AがBより効果があった」という結論が間違っていることがありうるということである。たとえば、200人の患者をくじびきで2群に分ける。片方の100人の患者にA、もう一方の患者100人にBを行う。Aが有効であったものが75人(残りの25人は無効もしくは悪化)、Bが有効であったものが60人であったとする。そうすると、5%以下の危険率でAがBより有効であると判断するのである。これに対していくつかの疑問が出るだろう。この病気は自然に治るものもいるというのではないか。Aが有効というのはどうして判るのだ。無効であるばかりか、かえって悪化するものもいるではないか。その通り、それが医療の不確実性である。

別の例をみてみよう。50名の高血圧症患者に降圧剤を飲んでもらい、1ヵ月後に血圧を測る。降圧剤を飲む前と後の血圧が図4のようになったとする。飲む前の血圧の平均値は169.4 mgHg(ミリ)で、血圧は最大値220ミリ、最小値142ミリであった。降圧剤の服用によって血圧の平均値は161.7ミリになり、最大値は204ミリ、最小値は128ミリになった。降圧剤で血圧の下がった者は26人、逆に上がった者が20人、不変は4人であった。この場合、この降圧剤は危険率5%以下で有効と判断されることがある(実際にはこのようなくすりが使われることはないが)。降圧剤を飲んで血圧が上がったり変わらなかった者が半分近くもいるのに「効いた」とは何ごとかと読者は思われるであろう。しかし「効いた」と判断されることがあるのである(別の方法で解析すれば無効という判断もありうる)。これが「医療の不確実性」である。一部の急性の病気は別であるが、慢性疾患の治療とは本来そういうものなのだ。

医療の不確実性を認めようとはせず、患者の前ではあたかも万能であるかのように振る舞う医師がいる。しかし、患者は必ずしも医師個人を信じているわけではない。CT、MRIなどで重装備した「現代医学」に幻想を抱いているのだ。幻想が打ち砕かれた患者は「紅茶きのこ」など「幻しの珍妙薬」に走る。そしてふたたび、幻想は泡のように消える。今後のバイオテクノロジーの進歩によって、個人の体質にあった(テイラー・メイド)治療が可能になるという研究者がいる。しかし、これも大いなる幻想である。ヒトが36億年という年月をかけて進化してきたという事実に眼をつむった人のたわごとである。「無常忽ちに到るときは国王大臣親昵従僕妻子珍寶たすくるなし、唯獨り黄泉に趣くなり(修證義第一章)」が人間である。この偽善に満ちた世にあって、死こそ最高の倫理(平等と正義)である。

最近、大病院の医療ミスに関する報道が目につく。医療ミスは最近になって増えたのか。そんなことはない。発言する患者や遺族が多くなったからだ。医療(とくに治療)は不確実であり、「医療行為」そのものが本来的に危険を内臓しているのだ。医療関係者には「自分たちのしていることは良いことだ」という思い込みがあり、「自分はいま危ないことをしている」という意識が少ない。医療関係者が「医療の不確実性と危険性」を常に意識することが医療事故の減少につながる。ある中国からの留学生は「日本、病院きれい、器械すばらしい、お医者さん、看護婦さんやさしい、だけど日本の病院は恐い」という。「お医者さんの処方するくすり、もらうくすり同じどうか分からない」そうだ。「くすりの色変わることときどきある」という。そこで薬剤師に尋ねたら「色違っても、成分同じ」と言われたという。中国の薬剤には「目ぐすり、服みぐすり、くすりの名前、効きめ、副作用、みんな書いてある」から安心だと言うのだ。「現代医学に対する幻想」は一般人だけのものではない。「おかしいなあ。この病気にはこのくすりが効く筈なんだが」と本気で首をひねってしまうお医者さんがいる。

身体に何らかの作用をもたらす(=生物活性)物質をあるときは毒物といい、あるときにはくすりという。くすりか毒かを決めるのは量である。昔のくすりはあまり効かなかった(=毒性が弱かった)。しかし、最近のくすりはよく効く(=毒性が強い)。使い方を誤ると不幸な結果を招く。血中コレステロールを本当に下げるくすりもある。しかし、人間の血液のコレステロールが高いのはそれなりの意味があり、ただ下げればよいというものではない。このくすりは単にコレステロールだけを下げて、他に何の影響ももたらさないというわけにはいかないのだ。薬剤によってコレステロールを下げれば、その影響は心身にあまねく及ぶ。

ヒトの体と心は中枢神経系、自律神経系、内分泌系、免疫系がお互いに調整しながら、調和を保っている。身体がいかにすばらしい存在かということは「私のからだは世界一すばらしい」(アンドレ・ジオルダン・著、遠藤ゆかり・訳、東京書籍、2001年8月)という本を一読すればお判りになる。一つの機能だけを狙い撃ちすれば、せっかくの調和が崩れてしまうことにもなりかねない。しかし、このようなことが常に起こるというわけではない。ヒトの身体は少しぐらい攻撃を受けて傷ついてもすぐ立ち直る。肝臓を半分取ってしまうというような無茶なことをしても、身体は、あらゆる機能を動員して、何ごともなかったように肝臓を復元する。身体を傷つけるこのような行為が「医療」としてまかり通るのは、この身体の素晴らしい復元力のおかげである。36億年という年月をかけてつくられたのだ。この36億年がいかに長いかということを別の面からみてみよう。

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ふたたび現代医療について

砂原茂一は、その著「臨床医学研究序説 ム方法論と倫理」(医学書院、1988年1月)において、医師は、「医療の不確実性」を率直に認めることが必要で、患者に事実をありのままに開示する勇気をもたなくてはならない、と説く。そして、「臨床医学においては、真実への接近は確率的方法(註 くじびき臨床試験のこと)による以外にないことを医師・臨床医学研究者は自ら明確に認識し、そのことを患者・被験者に開示する勇気をもたなくてはならない。臨床医学の真実、臨床医学研究の方法論的必然を患者・市民が理解したうえでの患者・市民の研究への参加協力なしには臨床医学の進歩は期待できないことの社会的合意を得なくてはならない」と述べている。

日本の大学病院の医師は、生物医学的研究(培養細胞と試験管を先端医学ぽい研究)が好きで臨床研究にはあまり熱心ではない。このことから、「日本の医学研究に対する国際的貢献度は3%であるが、臨床医学研究に対する貢献度は0.3%に過ぎない」という批判の声が出る。大学教師の役割は教育と研究である。しかし、医学部の教師の職務は教育・研究・診療ということになってしまっている。しかし、大学病院の臨床教授の仕事は、本来診療という行為を通じて教育と研究を行うことである。扶氏医戒(緒方洪庵)にある「毎日夜間に方て更に昼間の病按を再考し、詳に筆記するを課定とすべし。積て一書を成せば、自己の為にも病者にも広大の裨益あり」というのが、すなわち大学病院臨床教授の職務である。

診療とは診断と治療のことである。近年、診断技術は著しく進歩した。かつては、身体の外から視る(視診)、聴く(聴診)、触わる(触診)、叩く(打診)などして手探りで病巣の発見に必死であったが、今ではいろいろな機器を用いて生体の中の様子を容易に覗くことができる。ある分野では病理解剖(死後に解剖して病因を探る)を不要にしてしまった。

診断には科学の論理がそのまま通用する。したがって、医師は診断に懸命である。しかし、診断がついたらそこで思考回路が停止してしまう。この診断にはこの治療と周辺の権威が言うから、伝統的にその治療法を試みることが多い。治療は確率の世界である。如何ともし難い不確実性が常につきまとう。Aという患者にある治療を行って効果があったからといってBにも有効とは限らない。まったく手探りである。現代医学は一応自然科学の体裁を整えているから、その医学を学んだ医師が治療に対して診断ほどに情熱を傾けられないのは当然かも知れない。「治療はアートである、経験である」という医師の言葉は「治療は科学のみでは割り切れない」ことを意味している。

血管にチューブを入れて冠動脈の狭窄を押し広げたり、顕微鏡下で微小な血管を縫合したり、内視鏡下に消化管の腫瘍を切除したりすることができるようになった。いずれも治療技術の偉大な進歩である(医療技術そのもの進歩ではなく、エレクトロニクス・ITなどの周辺技術の進歩であることに注意)。しかし、その基本的原理は病巣の切除あるいは修繕で100年前と変わるところはない。このような技術は原因が外にある病気(たとえば感染症)ないしは急激に起こる病気(たとえば心筋梗塞)、あるいは慢性的であっても局所的な病変(たとえば白内障)の治療に対しては絶大な威力を発揮する。しかし、100年来の近代医学の基本原理は、がんのようにその原因が体内にありしかも長い年月を経て発生してくる病気には効能が少ない。

がんの「早期発見・早期手術」は、近藤 誠氏のいうほどに無効・有害ということはないが、かといって世間が考えているほど有効なものではない。たかだかある種のがん死を数年先送りしているに過ぎない。がん対策として予防が治療に勝るのは当然である。医師は概して病気の予防には不熱心であるが、がん検診(予防医学の一分野)に熱心に取り組んでいる医師は多い。だからといって検診にばかり力をいれるのもどうかと思う。不必要な治療を受ける患者が増えるだけだ。繰り返すが、年齢を重ねると誰にでもがん(あるいは近藤氏のいう「がんもどき」)ができるという意味で、がんは「避けられない病気」である。しかしがんは「予防可能な病気」でもある。一個のがん細胞が人の命を奪うまでに生長するのに20年かかるとする。この20年という期間を30年、40年に延長することは可能である。つまり、がんを抱えながらがんでは死なないというのが最良のがんの予防である。そんなことができるのか。できるのだ。後で詳しく述べる。

司馬遼太郎との対談において、医師である山村雄一は、司馬の「患者も、医学・医術が進歩すればするほど、哲学を持つことが大切ですね」を受けて、つぎのように語っている(前掲『人間について』)。

    八十歳を過ぎた人間の全身をていねいに調べると、約半分の人ががんを持っているんですよ。そうすると、八十歳を過ぎた人はうかうかできんわけですな。だけども、多くの人はがんを持ったまま、ほかの病気で死ぬんです。だからそういう人たちがお医者さんを走り回って、『統計で半分ががんになってるから、オレの体を診てくれ』と精密な検査をしてもらう必要があるか。むしろ、そのまま、持って死にましょうと、考えてはどうですか。とくに八十歳を過ぎた後のガンは、ゆっくりしてますし、たとえ手術が成功しても、取ったために長生きするのと、手術という外からの一つの大きなストレスを加えることによって体が弱り、早く死んでしまう危険性とを考えてみると、どちらがいいかわからないですね。そのまま何もしないでのんきに暮らしてるほうが、かえって長生きするかもしれない。だから、医者も患者の立場に立って、その患者の哲学がどんなものか、もしも自分が患者だったらどうかと、考えてみなければいかんですね。とにかく一番いいといわれている方法を無反省にやればいいということでいいか。患者さんも考えなければいかんし、医者も考えなければいかん。ただ、そうは言っても、患者さんは、しばしば司馬さんが言われるような考えをしてくれないわけです。むしろ過剰な医療を要求する。『もっと薬をください』『何とかしてください』と言ってすがりついてくる。すると今度は医者の哲学が乱れて、『これだけ言われるなら何とかしよう』ということになって、結果的に患者にとっては、不幸な場合が起こるわけですね。そこらがこれから非常に大事だと思います。

「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり」というが、佛家に限らず、医師あるいは一般人にとっても一大事である。医師が患者を診て何もしないということには勇気がいる。患者自身もその家族も、がんの宣告を受けて「何もしない」ことを選択するには勇気がいる。千人の人には千の生死がある。「生死(しょうじ)を明らめる」ことが大事だなどと言われても、お釈迦さまでもない私たちにはそれは無理というものだ。

文政11年の大地震のあと良寛が山田杜皐に送った手紙に「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はそれ災難をのがれる妙法にて候」とあるという。言うは易いが、私たち凡人はなかなかこのような心境にはなれない。しかし、この言葉を毎日お経のように唱えることによって少しづつ良寛の心境に近づいていくから不思議である。「あるがままに受け入れ、なすべき事をなす」(森田正馬)もまた同様である。

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