ためしに聞いてみるがよい。来世は男に生れてきたくはないか、美男に生れて慕いよる女たちを片はじから犯してみたくはないかと聞いてみるがよい。めざめた女は来世も女にと答えるにきまっている。男は哀れだという。 |
生物としての男と女旧約聖書によると、最初の人は男だった。
女は男のあばら骨に過ぎないのだ。ところが実際は大違いである。哺乳動物の胎内に宿る最初の生命はすべてメスである。ヒトも例外ではない。 性染色体がXXという組み合わせならメス、XYという組み合わせならオスになる(長谷川真理子 生き物をめぐる4つの「なぜ」 集英社新書01680G 2002年11月)。オスには内部生殖器として精巣があり、これが精子をつくる。メスには卵巣があって、卵をつくる。最初の生命は精巣にも卵巣にもなれる原生殖器を備えている。オス親由来のY染色体上の遺伝子が「精巣になれ」という指令を出すと原生殖器が精巣になる。何の指令もなければそのまま自動的に卵巣になる。精巣は男性ホルモンであるテストステロンを分泌する。このホルモンがオスの身体(ペニスという外部生殖器をもつ)をつくる。別の言い方をすれば、オスはメスのあばら骨から造られるようなものだ。 人間の男女関係動物の世界を観てください。メスを惹きつけるに十分な美しさや声音の持ち主か、体格が衆に優れ力が抜きんでていなければ、生涯一度もメスに触れることもなくおわるのがほとんどのオスの一生である(ああ、人間に生まれてよかった)。ましてメスやその子に暴力を振るうようなオスはたちまち追い払われ、他のオスにとって代わられる(ただし、ライオンやチンパンジーには子殺しが観察されている。新しく獲得したメスを発情させ、自分の子を作るための行為と解釈されている)。ヒトも動物である。女が子の親となる男を選ぶというのが、本来の姿だ。ところが動物と異なって、メスが着飾り、化粧する。男が女を選ぶという社会を男が作り上げた。男は賤しい動物で、きれいな女か、媚びる女か、従順な女にしか餌をやらないようにした。女を圧するために、宗教や法律まで動員した。男の社会的地位や金権力は、女を惹きつけるための、鶏冠でありコケコッコであった。最近の日本でも、高身長、高学歴、高収入がライオンのたてがみに相当する一時期があった。しかし、いずれの時代にあっても、女が最終的な決定権を握っていたことはいうまでもない。女は自分の匂い、声音(こわね)、姿態に最も激しく発情する男を選ぶ。 女が一人で生涯に産める子供の数は、15歳から45歳まで毎年産み続けたとして30人が限度である。男はどうか。日本人の男で最大の子持ちは11代徳川将軍家斉の55人である(松村明・編 大辞林 三省堂1988)。しかし、この将軍は40人の側室を抱えていた。つまり、手当たり次第だったのだ。生物学的に見れば、夜毎、排卵期の女に接すれば10年で3,000人の子供をつくることができる。10年毎晩が無理であっても一生かかれば3,000人の子持ちは不可能な数字ではない。それどころか、精子を冷凍しておけば10万人も夢ではない。ましてや、体細胞クローンとなれば100億の子供も可能である。 ここでは一人の男の作れる最大の子供数は3,000人ということにしておこう。ヒトの生物としての価値は子孫の数であり、最近流行りの言葉で言えば、自分の遺伝子を相続する子孫を何人作れるかである。そうだとすれば男というのはそんなにいらないのだ。生物学的に見れば、男は女性の1/100の価値しかない。男は自己の無価値を無意識に覚っている。だから、男は死に急ぐ。失恋あるいは失業によって自死するのはほとんど男である。ときには逃げようとする相手を殺してから死ぬ。失恋や失業のごとき些細な出来事で自死するようなバカな女は少ない。生きてさえいれば次のチャンスがいくらでもあるではないか。 20代の男女の死因順位の1位と2位は長いこと「自殺」と「不慮の事故」(交通事故が多い)である。1999(平成11)年に、2,355人の20代の男が自死し、2,071人が不慮の事故で死んだ。それに対して、同じ年に自死した20代の女は915人、不慮の事故での死亡は520人である。20代の男女の人数はそれぞれほぼ同じ約907万人であるから、この年齢の男は女の2.6倍も自死し、不慮の事故死にいたっては4倍も多い。夏になると、土曜日の夜毎、若者(だろう)が爆音を響かせて走り回る。たしかにうるさい。でも許してやってほしい。あれは泣き叫んでいるのだ、一夏の雄蝉のように。 1999年に50代の男は6,187人も自死したが、同年齢の女の自死は1,695人であった。これは男女の必然である。長年連れ添った奥さんが亡くなると、男は遠からず奥さんの跡を追う。ところが亭主が死ぬと奥さんはますます元気になる。高年男性死亡の第一のリスク要因は「奥さんの死亡」であるが、高年女性の死亡リスクの最大なるは「亭主の生存」だという。 男を挑発する女たち男は女の姿を見ただけで簡単に発情してしまうのに、若い女は競ってますます過激に男を挑発する。身に纏う布切れを小さくするのだ。胸元を開ける。背を丸出しにする。太腿を露にする。女の裸を見慣れた男でも、このような女の身振り仕草にころりとだまされることがある。錯覚(錯視)である。その話し振りから、この種の女は大抵、声の高き、口の早き女であることがわかる。男女の情に関する限り聴覚は視覚に断然まさる。一聞は百見にまさる。琴線を震わせるのは声音である。男を長期間にわたって奮い立たせるのは言葉をおいてない。 女は身を飾るのに熱心だ。年令を問わない。でも、あれは男に見せるためのものではない。女が男を惹き寄せるには、女という生物学的属性だけで十分である。女が金・銀・宝石からなる首輪をつけ、耳にぶら下げ、手首に巻き付けるのは男を惹き付けるためではない。自分を魅せ、他の女に見せるためだ。同じ理由で男を選ぶこともある、装飾品として。女の競争相手は男ではない、女である。 女が逃げると、男はただひたすらその女を追いかける。泣きくどき、ときに待ち伏せ、押しかける。未練である。「あの女をおいて自分を相手にしてくれる女はいない」は男の予感である。男は、奪った男を憎みはするが、自分より優れた男、好い男と知った場合は諦める。女も去った男を詰(なじ)る。それだけではない。女の攻撃は去った男よりも奪った女に向かう。自分より姿格好のよい泥棒ネコをとことん追い詰める。競争相手だからだ。しかし一時(いっとき)のことである。間もなく「あんなバカ男を呉れてやる」で終わりとなる。髪をばっさり切り、いつもとは異なる紅をさし、スカートを短くして決然と眉をあげて街を歩く。「人類の半分は男」は女の予感である。 翔ぶ女たち「人は5歳にしてすでにその人である」(山本夏彦)が、女はすでに2歳の時分からおのれの商品価値を知っている。ハイハイしてにじり寄れば、じじ(あるいはちち)の頬がゆるみご褒美一つ。膝に乗れば目尻が下がってご褒美二つ。頬を寄せれば目を潤ませてご褒美三つ。女は、かくも幼きときから、卓抜して術(すべ)を躯につけている。小・中学生の援助交際を聞いて「年端のいかぬ子どもが・・・」と絶句するバカなおとながいる。「子どもは何でも知っている」(山本夏彦)のである。 強姦以外の性交渉は金品の授受をともなう。女の門戸は24時間365日開いている。食うに困ればいつでも対価を求めることができる。この「いざとなれば」という思いを胸の奥底に秘匿して女は生きている。男は、古来どの国でも、このことを知っていいたから、公序良俗なる道徳・風習をつくって「女のいつでもどこでも食える」を封じてきた。今、これが解き放たれたのだ。小学生が裸になって写真を撮らせて数万円の金を得ることを知ったのである。女は片道切符で世界を旅することができる。女がこの最後の切り札を実際に使うことはめったにないが、「いざというときには」が女を世界に送りだす。男の切り札は「橋の下」「段ボール箱」しかない。この物言いに反発する女性もいるだろう。胸に手を当てて心の奥底を密かに覗いてみるがよい。「ああそうなのか」と妙に腑に落ちる。 女の化粧は変装である。髪型を変え、紅を変え、装いを変える。これで身ばかりかこころも別人になる。気分が晴れないときは、話す(単なるお喋り)、食う(男は食うが女は食べる。最近は男も食べるようになった)、買う(単なるショッピング)で気が晴れる。飲む(酒)は必須ではないという。女には変装の小道具が山ほどあるが、男の選択肢は少ない。髭(くちひげ)鬚(あごひげ)髯(ほおひげ)は簡単に生えない。せいぜい頭をまるめるぐらいか。そもそも出来が違うのだ。 「女の猥談はどんなものか」周辺に聞いてみた。「あなたと違って、おんなはあんなものに興味はないの」「でも、淑女の雑誌は相当なものだ」「あれは男の書いたもの。喜ぶのは男としょんべん臭い女の子だけ」納得した。女は触覚である。粘膜の感覚である(残念ながら男にはわからない)。「食べる」は「舐める(なめる)」「舐る(ねぶる)」で、性行為そのもの(口のまぐわい)である。男は、ひたすら口に放りこみ、両三度噛み砕いて呑みこむ。世の中が変わって男も食べるようになった。男が人前で食べるようになって世の中が変わったのかもしれない。 |
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