がんについて


司馬遼太郎さん
1996年2月12日に亡くなった司馬遼太郎は、山村雄一(1918年大阪生、大阪大学学長、文化功労者、1990年6月、没)との対談においてつぎのように述べている(『人間について』中公文庫、1989)。

    私の住む場末の町に七十何歳かの華やかな職業の人がおりまして......華やかというのは市会議員さんですけど。その人が肝臓が悪いということで公立病院にいきました。動脈瘤があることが発見されて、お医者さんが、これは手術しなければいかん。......そういう場合、もし私ならば「これはもう持って死にます」と言うかと思います。そのように言う覚悟を平素から整えておかなければならないと思っていますが、その人の場合は、現代医学の重厚なメカニズムの中に入って行った。医者の側の論理に身をゆだねた。もしそれがその人の哲学で、そのように身をゆだねたのなら、それはそれでいいと思います。
    若い人のガンは別として、ある年齢以上の人のガンは、一つの生命体の、やや異常であるにせよ、大きな場では正常な現象と言えるんじゃないでしょうか。
    私は、ガンは一番神様に近い病気だと、いつも思うんです。(笑)よくキリスト教の人が、「神のおぼしめし」という言葉をフレーズとして使いますが、何となくそのおぼしめしに近い。ペストにかかったら、これはもうお医者さんにまったくゆだねなきゃいけませんが、ある年齢に達して、どうもガンにやられているらしいというときは、非常に強い哲学を持たなければ、どうにもならんだろうと思うんですけど、生死の問題はむつかしいですね。

司馬は、ガンは生命現象である、ガンになったらガンを抱えたままこの世を去る、動脈瘤(この場合、司馬の言っていたのは蜘蛛膜下動脈瘤のこと)ができてもそれを切り取って欲しいとは思わない、ガンも動脈瘤も自分の体にできたものだ、大事にしたい、というように思っていたようだ。司馬は、1996年2月10日の午前1時頃、腹部大動脈瘤の破裂で意識を失い、救急車で病院に運ばれた。そのときの様子を福田みどりさん(司馬遼太郎夫人)はつぎのように語っている(『追悼・司馬遼太郎の世界』文藝春秋、1996年4月号)。

    (前略)日付が(二月)十日にかわった午前零時過ぎ、お風呂場で歯を磨いて、ふいに足元がよろよろっとして、私の名を呼んで「おーい、また大貧血だ」と居間のソファに倒れ込んでしまったんです。そのときです。いま思えば不思議なんですが、いままで一度もそんなこと言ったことがない人なのに、「時計見て」と言ったんです。それで私も無意識に時計を見て、ちょうど零時四十分でしたか。すぐにかかりつけのお医者さまに電話して、私も本人も貧血だと思っていますから、頭の位置をどうしたらいいですか、どんな処置をすればいいですかなんて伺っていて、するとその電話の最中に突然司馬さん(みどり夫人は、結婚以来一度も司馬遼太郎さんを「主人」と言ったことはなく、最初は「おっさん」とか「おじさん」、「あちら」― それがいつの頃からか「司馬さん」になったと語っている)がソファの上で吐血したんです。それで慌てて先生に来ていただきました。司馬さんは何だか少しづつ血を吐いて脂汗を額に浮かべながら、「空気がほしい、空気がほしい」と苦しがっていました。(中略)
    駆けつけた弟のお嫁さんと一緒に救急車に同乗して病院に向かうとき、私、なぜか「もうだめね」って。「何を言ってるんですか」って彼女に言われましたが、どういうわけか本気でそう思っていました。ただ、人一倍、苦しいとか痛いとかいうのが嫌いな人でしたから、苦しませることだけはしたくないなってぼんやり思っていました。十日の昼間は、容態も落ちついて内視鏡検査でも胃はきれいで、担当医も「十二指腸潰瘍」ではないかということで、本人もほっとしていたようでした。みんなに「ストレスでしょうね」と言われて「ぼくにはストレスはなかったんだけどなあ」と呟いたり。それがその夜になって再び吐血と下血が始まって、報道されたように、翌十一日の未明から九時間におよぶ大手術をすることになったんです。四万 ccもの輸血が必要で、司馬さんはA型なんですが、足りないからと大勢の人たちに血を分けていただきました。腸から大量の出血があって医師も「手術しかない」と言い、それで私は同意しました。ただ「本人の体力が心配です」と申し上げたら、それまでどちらかといえば楽観的なことを仰っていた先生が「ぼくも心配です」と言われたので、私も状況のむずかしさを肌身ではじめて感じとりました。そうこうしているうちに司馬さんが「手術はいやだ」と言いだしたんです。先生から説明を受けても納得できないようで、病室の中から外で待っていた私を呼ぶんです。私とかかりつけの先生が説得して、で、「頑張ります」と司馬さんが最後に呟いて手術が決まりました。でも「頑張ります」なんて、あんなこと私は司馬さんに言わせたくなかった。頑張るという言葉はあまりに司馬さんらしくない言葉でしょう。新聞記事の中には「頑張るぞ」と書いたものもありましたが、「頑張るぞ」なんて司馬さんが最も嫌った言葉だったと思います。そういう掛け声や気合だけで、この国が悲惨な戦争に突入していったこと、そういう昭和の日本人の日本人らしくない精神主義を司馬さんは、生涯かけて問いただしてきた人なんですから。(後略)

大量の輸血で意識が一時的に戻ったとき、司馬は「手術はいやだ」と言ったという。上記の対談『人間について』において、司馬は、「いまのところ元気なんで、こんな大きなことを言っているのかもしれません。肉体が弱ると精神も弱りますから、そのときどんなこと言い出すかわかりませんが、やっぱり平素きちっとしとかなきゃいけない、という気持はありますね。」と語っている。

医師団は大手術を行なった。司馬の身の処しかたを十分承知のはずの奥さんがついていたのに。きっと奥さんはパニック状態に陥ってしまっていたのだろう。

医師とは、目の前の患者に対して「何もしないではいられない」存在である。この医師の心情はよく理解できる。病める者を目前にして、手を拱くは医師の恥辱とされてきた。「病メル者ヲ見テコレヲ救ハムト欲スル情意是即医術ノ由テ起ル所ナリ今モ仍医宜ク此心ヲ本トスヘシ」が医師の本分である。一般の方々はこのことをよく知っておく必要がある。患者が何かを訴えれば、取り敢えず検査をして薬剤を処方する。昨今は取り敢えず点滴を行うお医者さんが多い。必ずしも「点滴が収入になる」からだけではない。患者が満足するからだ。診察をして「異常ありません」と言って手ぶらで帰したのでは患者が納得しない。「あの医者は何もしてくれない」という噂が広がって評判を落とす。「とりあえずこのくすりを服んでみてください」といって処方することになる。「ビタミンも入っています」などと付け加えれば患者は大喜びだ。実際は服まないのに、ただ同然の費用で袋いっぱいのくすりをもらえば喜々として病院をあとにする。次のことは是非覚えておいて欲しい。自分が口から食べられる限り、点滴は不要であるばかりか、時に有害である。患者が水が飲めるかどうか確かめもせず点滴を指示するお医者さんがいるような病院からは一刻も早く逃げ出した方がよい。

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日本人のがん死
ローベルト・コッホの結核菌発見(1982年、ここに近代医学が始まった)から100年経った1981年に日本において特記すべき事象がみられた。ガンが死因順位の一位になったのだ。1960年頃には、多くの科学者が20世紀中にガンの特効薬あるいは予防薬が発見されると信じていた。しかし、これは単なる夢に終わった。

最近の日本では年間100万人ほどの方が亡くなっている(1999年[平成11年]の死亡数は約98万2千人)。そのうち、29万人ががん(正式には悪性新生物という、英語のmalignant neoplasmの日本語訳を使うことになっている)で亡くなる。総死亡に対する割合はほぼ30%である(1999年は29.6%)。日本人の約3人に1人はがんで亡くなっていることになる。

がんによる死亡数は年々増加しているが、これはがんで亡くなることの多い高齢者が増えているためで、年齢調整を行うと、男性で微増、女性ではやや減少している。このことは何を意味するか。昔からひとはある一定の確率でがんで亡くなってきたのだ。このことは、今後とも変わることはないだろう。がんはひとが最期を迎える一つの形なのだ。ただ、内容は大きく変わった。男性では胃がんが減って肺がんや大腸・結腸がんが増えた。女性では胃がんと子宮がんが大きく減り、肺がん、大腸・結腸がん、乳がんなどが増えてきた(図4)。すなわち、あるがんが増えてあるがんが減っただけのことで、がん全体をみれば大きな変化はない。直栽にいえば、死亡診断書からみた死因順位が変わっただけのことに過ぎない。胃がんで死ななくなったので肺がんで死亡する人が多くなったわけである。

それにしても、男女の胃がんと女性の子宮がん死亡の減少は著しい。ある方は、医療技術の進歩によってがんが早期に発見され(集団検診)、治療技術(手術、放射線、抗がん剤)が向上したからだというだろう。そうではない。なんでこんなことが言えるかというと、強固な状況証拠があるからだ。アメリカでもかつて胃がんが多かった。第二次世界大戦前のアメリカ人男性のがん死亡1位は胃がんであったし、女性の1位と2位は子宮頚部がんと胃がんであった。それが過去50年間に著しく減少した。胃がんも子宮がんも1930年ごろ(有効な手術法もなかったし、抗がん剤も開発されていなかった)から急速に減少し始めた(要文献)。胃がんが減った最大の要因は輸送手段の進歩と冷蔵庫の普及によって新鮮な食物がいつでも手に入るようになったからである。また、子宮頚部がんの減少はシャワーの普及によって全身くまなく手指で洗えるようになったからである。日本でもアメリカにやや遅れて胃がんと子宮がんの減少が始まった。しかし、アメリカでは昔から大腸・結腸がん(男女とも)、前立腺がん(男性)、乳がん(女性)が多かった。アメリカにおける肺がんは、男性では1945年ごろからほぼ直線的に増加し始めたが、女性で肺がんが急激に増え始めたのは1960年代に入ってからのことである。現在でも肺がんががん死亡のだんとつ1位であることに変わりはないが、近年は増加傾向に歯止めがかかり、最近では減少ぎみである。

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近藤 誠氏の「がんもどき」
ガンは自然の老化と深く結びついた病気である。70歳以上の人たちのガン死は限りなく自然死に近い。吉田富三博士の「初めは音もなく訪れ、一旦それと診断された暁には、死から免れ得ない病。家庭的にも、社会的にも、中核をなす人々を襲う業病。それが癌である。宿主細胞より生まれ、宿主を殺すまで増え続け、宿主の死とともに自らの命をも絶つ不思議な生物系。それが癌である。」は至言である。この定義にしたがえば、「手術で病巣を切除したら治った」などというものは「ガンのようなもの」であってガンではない。ガンには、周辺の組織に侵入する(浸潤)、遠く離れた組織に転移する、という性質がある。この二つの性質を兼ね備えたものが吉田富三博士の定義するがんである。顕微鏡で視て細胞の顔つきががん細胞に似ていても、本当に粘膜の中にだけに留まっている(浸潤も転移もない)ものはがんではなく、がんのようなものである。

近藤 誠氏(慶応大学)は、この「ガンのようなもの」を「ガンもどき」と呼び、早期がん(切除によってほぼ100%治るといわれている)のほとんどは「ガンもどき」であるという。近藤氏は「ガン検診百害あって一利なし」(『それでもがん検診受けますか』ネスコ/文藝春秋、1994)、「ガン手術無用論」(『がんは切ればなおるのか』新潮社、1995)、「ガンに対して無意味な闘いを挑むな」(『患者よ、がんと闘うな』文藝春秋、1996)、「長生きしたければ病院に近づくな」(『医原病「医療信仰」が病気をつくりだしている』講談社+α新書、2000)を説く。発見された病変が「ほんもののがん」(転移している)であれば、その病変を切除しても早晩再発(= 死)は免れない。同じ死ぬのなら手術という侵襲が加えらるだけマイナスである。内臓の手術は苦しい。手術によってかえって命を縮めることもありうる。一方、病変が「がんもどき」であれば切除せずに放っておいても命に別状はない。「がんもどき」が大きくなって生活に支障が現われるようになってから(たとえば消化管の腫瘍が大きくなって起こる食物の通過障害)治療を受けても遅くはない。このようなことから、近藤氏はがんの「早期発見・早期手術」は無効・有害と説いている。この近藤理論は、1)「ほんもののガン」はどんなに早期に発見されてもその時点ですでに転移が生じている、2)「がんもどき」が「ほんもののがん」になる確率は零であるという二つの仮説の上に成り立っている。第一の仮説は定義の問題である。「転移のないものはがんではない」という立場に立てば、病巣の切除によって100%治るようなものは「がんもどき」であって「ほんもののがん」ではない。この点で近藤氏の言っていることは納得できる。問題は、「がんもどき」が「ほんもののがん」になる確率は「正常細胞」から「ほんもののがん細胞」が生ずる確率に等しいという第二の仮説である。

がんは遺伝子(DNA)の病気である。ヒトは生まれながらにして多数の「がん遺伝子」と「がん抑制遺伝子」をもっている。「がん遺伝子」はがんをつくるための遺伝子ではなく、「がん抑制遺伝子」もがんの発生を抑えるための遺伝子ではない。どちらもヒトの正常な発育と生命維持に重要な役割を演じている。細胞分裂を促進する働きを「がん遺伝子」が担い、ある一定のところで細胞分裂を止めるように働くのが「がん抑制遺伝子」である。「がん遺伝子」が働き過ぎて(活性化)、「がん抑制遺伝子」がうまく働かなくなれば(不活性化)、とどまることなく細胞が増殖する。これががんである。これを自動車のアクセルとブレーキに例えて説明する方もいる。どちらも自動車の機能に必須のものだ。アクセルから足を離してもガソリンが供給されるという故障が起これば車は暴走する。この状態に匹敵するのが「ガン遺伝子の活性化」である。車を止めるときにはブレーキを踏む。ブレーキを踏んでも車が止まらないという故障が「ガン抑制遺伝子の不活性化」に相当する。

「ガン遺伝子」と「ガン抑制遺伝子」はいろいろな状況で傷ついて、活性化したり不活性化する。口から入る食物・水、吸う空気の中に無数の遺伝子傷害物質が存在する。そもそもヒトが酸素と太陽エネルギーに頼って生きる生物であるということが何よりもがんを「避けられない病気」としている。酸素自身が強力な変異原性を示すし(活性酸素という)、太陽光線中の紫外線の変異原性も強力である。

しかし、一つの「がん遺伝子」と一つの「がん抑制遺伝子」が傷害を受けたからといって直ちに正常細胞ががん細胞に変わるわけではない。うけた障害が非常に大きくてその細胞が死んでしまえばがん細胞は誕生しない。細胞が分裂できる程度の障害でなければならない。さらに、傷害を受けた遺伝子を修理する「DNA修復遺伝子」も存在する。この修復遺伝子の傷害もがん細胞の誕生に関係する。大多数のがんは何種類もの「がん遺伝子」、「がん抑制遺伝子」、「DNA修復遺伝子」の傷害が積み重なってはじめてヒトの命を奪うがんが発生する。その過程で生ずるものに近藤氏のいう「がんもどき」が含まれているのだろう。たとえば実験的肝がんで発生する過形成結節などがこれに相当する。この「がんもどき」は遺伝子の傷害によって発生したものであるががんではない。「がんもどき」の細胞にさらにもう一回以上の遺伝子変化が起こって最終的に「ほんもののがん」ができる。この一連の遺伝子変化が不運にも早く起こってしまう人もいれば、何十年にも亘って緩やかに起こる幸運な人もいる。総じて、年齢とともに「ほんもののがん」の発生が増える。がんは人の老化と深く結びついた病気であるといった理由はここにある。

以上に述べたことから、「がんもどき」の細胞が「ほんもののがん」細胞に変異する確率は「正常細胞」から「ほんもののがん」細胞が生じる確率より大きいといえる。このことは、カナダのFaberが実験的肝ガンにおいて確認している。つまり、近藤氏の第二の仮説が成り立たない場合も有り得る。近藤氏のいう「がんもどき」には切除によってがん死を先送りできるものがあることは否定できない。その意味では、現在行われているがんの「早期発見・早期手術」が全く無駄であるという近藤理論は肯首し難い。

しかし、「がんもどき」がどの位の確率で「ほんもののがん」になるのか、なるとすればどの位の期間でそうなるのか。このようなことはほとんど分っていない。今までとにかくガンと診断されれば、とくにそれが「早期がん」である場合にははほとんど全例に速やかに手術が施されてきた。「早期がん」の自然史を詳細に観察した研究は少ない。たまたま「早期がん」が発見されて手術を拒否した人がいたとしよう。そしてその人が1年以内に死んでしまったとする。だからといって、「早期がん」は一刻も早く切除しなくてはならないのだと主張することはできない。なぜならば、近藤氏のいう「がんもどき」が1年で「ほんもののがん」に変異して命を奪うほどに生長したのではなく、発見された時点ですでに「ほんもののがん」であったのかも知れないからである。ある一つの細胞ががん細胞になったからといって、そのがん細胞があれよあれよという間に命を奪うほどに生長するわけではない。5-20年という期間が必要である。したがって、少なくとも80歳以上の人には「がん検診」も「がんの手術」も不要ということになるだろう。

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