糖尿病の治療
血糖を急激に下げてはいけない

クロード・ベルナールの言葉

「糖尿病になって高血糖が続くとそのうちに目が見えなくなる」ということになっているから、医師も患者も血糖値を下げることに懸命です。糖尿病の治療に「血糖さえ下がればすべてよし」とする血糖中心主義(あるいは血糖至上主義)がはびこっています。しかし、薬剤によって糖尿病者の血糖を正常値(HbA1cで6%あるいは7%)に近づけようとすると、高い確率で低血糖(血糖70mg/dl以下)が起こります。低血糖は酸素欠乏のようなものですから非常に危険です。ひとの助けを必要とするような重度の低血糖発作は記録されるが、しばしば起こる手足のふるえ、脱力感、空腹感などの軽度な発作は大部分が無自覚で記録に残りません。とくに睡眠中の発作は気づかれることがほとんどありません。糖尿病の治療は高血糖と低血糖のせめぎ合いです。高血糖も悪いでしょうが、頻々と起こる低血糖発作のほうがもっと悪いのかもしれません。本当のことはわかっていないのです。 

「糖尿病には血管障害が多い。糖尿病が怖いのは合併症である」というのは病院などで治療を受けている糖尿病患者のデータから得られた結論です。したがって、「糖尿病に血管障害が多い」を言い換えると、「くすりで血糖を下げる治療を受けている糖尿病患者に血管障害が多い」ということになります。つまり、「糖尿病に血管障害が多い」のは「高血糖」に「くすり」という要因が加わっての話です。ほんとうのことを言うと、糖尿病患者に血管障害が発生するのは高血糖のためなのか、あるいはくすりで血糖を下げるからなのかはっきりしないのです。 

クロード・ベルナール(Claude Bernard、1813~1878)はフランスの医師・生理学者で、近代生理学の生みの親と言われています。フランスは彼の死を国葬で悼みました。観察と経験ばかりの医学を科学にしようと力を注いだベルナールは、生命現象の理解には実験が必須であるという立場から医師の治療はその結果によって仮説を修正する毎日の実験であると主張しました。ベルナールは『実験医学序説』(三浦岱栄訳・岩波文庫)においてつぎのように述べています。

しばしばお医者さんは、自分が用いた医薬によってすべての病人を治したと言って自慢している。しかしながらこの際、お医者さん方に尋ねたいことがある。それは、お医者さん方は同時に病人に手当を施さなかった場合を試みたかどうかということである。なぜかというに、もしそうでなかったならば、治したものははたして医薬であったか、それとも自然であったか、どうして知ることができよう。

「くすりを使わなかった場合はどうなのか」というベルナールの問いは今でもそのまま、糖尿病の治療に携わる医師に投げかけられています。血糖を下げるくすりを使っている糖尿病患者が心筋梗塞か脳梗塞で倒れた場合、医師は「さては血糖コントロールが不十分だったか」と悩みます。しかし、「血糖を下げることが善」と信じて、多くの医師は患者のヘモグロビンA1cや血糖値を頼りに血糖降下薬の処方を続けています。

「糖尿病の治療は血糖を正常値に近づけることである。血糖を下げないと血管障害が起こる」は医師の信念であり、患者もそれを信じています。根拠はなにかと医師に尋ねると「昔からそういうことになっている」「学会が認めている」いう答えが返ってきます。世界の糖尿病学会は、今までに行われた調査研究の報告書(学術論文)に基づいて治療のガイドラインを作成しています。そこで、それらの論文を読んでみると「血糖を正常値に近づけるという糖尿病の治療は大きな問題をはらんでいる」という事実にぶつかってしまうのです。

糖尿病の治療は1型と2型で異なる

糖尿病は今でこそ1型と2型に分類されていますが、インスリンが分離・精製されたころ(1921年)には糖尿病をこのように分類する考えはありませんでした。糖尿病はすべてインスリンの欠乏によって起こる病気と考えられていました。1930年代に彗星のように現れて数年間だけ糖尿病の研究をほとんど独力で行ったヒムスワース(Himsworth HP)が初めて、単にインスリンの分泌という観点からだけはなく、インスリンの効き目(インスリンに対する身体の感受性)という面から糖尿病を眺めたのです。ヒムスワースは「糖尿病はブドウ糖を利用する能力が低下する疾患である・・・糖尿病はインスリンの不足かまたはインスリンに対する感受性の低下か、またはその両方が作用して発症する」と考えました。卓見でした。現在、この見方に異議を唱える糖尿病関係者はいません。このヒムスワースの研究については「ヒムスワースの研究 その1」をご覧ください。

その昔(インスリンが使われるようになる前)、重症の糖尿病患者(今の1型糖尿病)は、いったん発症すると、どんなに手をつくしても数年のうちに、糖尿病昏睡を起こして死んでしまいました。インスリンが分泌されないから身体がグルコース(糖)を利用できません。患者の血糖はものすごく高くなったし(〜1000mg/dl)、尿にはたくさんの糖(尿糖)がでていました(1日に1キログラムの尿糖を排泄した症例が報告されています。これはまさしく、身体が融けて尿に流れ出るという状態でした)。

重症にならない限り糖尿病に自覚症状はありません。今と違って昔は、何の症状もない人たちが単にヘモグロビンA1c(もちろん、このような検査は存在していませんでしたが)が高いというようなことだけで医師の診療を求めるようなことはありませんでした。昔の糖尿病患者は、激しい口渇、夜も眠れないほどの頻尿・多尿、居ても立ってもいられないほどの倦怠感・疲労感、食欲が旺盛なのにどんどん痩せていくというような只事ではない症状*が現れてはじめて医師の許を訪れたのです。
*糖尿病で口渇・多飲・多尿という自覚症状が現れるのは重度の糖尿病です。血糖値が400mg/dlを超えるようになると、血液を薄めるために細胞から水分が移行して脱水状態に陥ります。そのため、のどが渇いて大量の水を飲むようになります。血液量が増えるにしたがって尿量も増えるからいくら水を飲んでも脱水状態は解消されません。さらにのどが渇いて水を飲んで多量の尿を排泄します。甚だしくなると、飲んだ水がそのまま尿となって排泄されるような状態(サイフォン)になります。

インスリンが発見されるまで、食事と運動以外に糖尿病の治療手段はありませんでした。当時の治療は尿中に排泄されるブドウ糖をゼロにすることを目標にしていたから、食事療法の基本は尿糖のもとになる炭水化物を与えないということでした(日本でも昔は炭水化物が極端に少ない厳重食餌*が糖尿病患者に与えられていました)。ブドウ糖が蛋白質からも作られるということから、食べ物を全く与えない飢餓療法が行われたほどです。患者は見るも無惨にやせ衰えていきました。重症の糖尿病はまさしく絶望的な病気だったのです。
*この厳重食餌は炭水化物が12%でしたから、現代のスーパー炭水化物制限食はかつての厳重食餌です。

1920年代に血中のブドウ糖濃度(血糖値)が少量の血液を用いて測定する方法が開発され糖尿病患者の血糖測定が行われるようになりました。そして、糖尿病の本質はインスリンの欠乏のために血糖値が高くなることであって、尿糖の出現は血糖値が腎臓の糖排出域を超えたために起こる副次的な現象に過ぎないという考えが一般的になりました。そこで、尿糖を抑えるだけでなく、血糖値をできるだけ正常値に近づけることが糖尿病治療の目標になったのです。

そんなところに、1921年にバンティングとベストによって抽出・精製されたインスリンが確実に血糖を下げ、尿糖をみごとに減らすことに成功しました。まさに画期的でした。インスリンがただ死を待つばかりの重症糖尿病者の命を救ったのです。インスリンを使うことによって、若年の糖尿病者が長生きできるようになりました。インスリンの分泌不全によって発症する1型糖尿病(かつての若年発症型糖尿病あるいはインスリン依存糖尿病)にはインスリン注射が絶対的に必要です

インスリンが発見されてから第二次世界大戦までの1型糖尿病の治療目標は極めて明快でした。最初は患者を死の淵(糖尿病昏睡)から救出することでした。ところが、インスリンによって救われた患者には新たな問題が発生しました。インスリン治療で長生きすることになった糖尿病患者にいろいろな障害の起こることが明らかになったのです。昏睡以外の合併症の存在はインスリンが使われるようになるまでは知られていませんでした。糖尿病昏睡だけでなく、神経障害、網膜症、腎症、心臓血管障害の防止が新たな治療目標として加わりました。

その後、尿糖や尿蛋白を試験紙で簡単に検出できるようになって尿検査が広く行われるようになりました。そして、尿糖陽性の人にブドウ糖負荷試験を行って糖尿病を診断する機運も出てきました。そのため、渇き・多飲・多尿・激やせなどの症状がないのに糖尿病という診断がくだされる人が増えてきたのです。今でいう2型糖尿病です。インスリン分泌の悪くなっている人もいますが、大部分はインスリンの働きが悪くなっている人たちでした(インスリン抵抗性)。

血糖が高く尿糖が出るというだけで自覚症状もありませんから、尿糖や血糖の検査で発掘された糖尿病は疾病概念でいうところの病気(本人あるいは周りが心身に何か不都合なことが起こっていると感じている状態)ではありません。検査をしてみたら「異常」が発見されたというだけです。だからといって、見つかった「異常」を放置することはできません。心身の「異常」を「正常」にもどすのが医師の仕事ですから、この人たちの高血糖や尿糖をどうするかが大きな問題でした。2型糖尿病はインスリンが分泌されているから、インスリン注射は治療の絶対要件ではありません。しかし、インスリンの発見(1921年)から30年間、血糖を下げる手段は食事の制限とインスリンの注射しかなかったのです。生きる歓びを失わせる食事制限は不人気だったし、毎日のインスリン注射は苦痛でした。

スルホニル尿素剤の登場

そこに、1950年代の半ばごろ、経口で血糖を下げるスルホニル尿素剤(SU剤)が登場したのです。注射をしなくても、のむだけで血糖が下がるというのですから、SU剤*は画期的な薬でした。医者も患者も大歓迎でした。日本ではSU剤トルブタミドが1957年から使われるようになりました。1960年代には糖尿病とされていたひとの80%に使われていたようです。
*SU:sulfonylureaの略。膵臓のβ-細胞を刺激してインスリンの放出を促す。経口糖尿病治療薬は、1957年のSU剤につづいて、1961年にビグアナイド(メトホルミン)、1993年にα-グルコシダーゼ阻害剤、1997年にチアゾリジン、1999年に速効型インスリン分泌剤、2009年にインクレチン製剤が日本で発売された。

最初のころ、SU剤は多数の薬害(死亡・廃疾)を引き起こしました。安易な使用によって重症低血糖が相次いで発生したのです。ひどい話ですが、このころ、SU剤は町の薬局で自由に売られていました。これについては、二宮陸雄/高崎千穂『糖尿病とたたかう』(ベスト新書81、2005)をお読みください。ここにそのうちの「こわい経口血糖降下剤」を転記します。二宮陸雄氏はさらに、1974(昭和49)年12月25日の朝日新聞に論説「低血糖事故を防ぐ道 降下剤の使用抑制が最も有効」を投稿し、SU剤に対して強い警告を発しました。これも併せてお読みください。 

このように、SU剤の2型糖尿病者の血糖を下げる効果は絶大でした。しかし、この薬剤を使って血糖を下げることが、ほんとうに、この人たちの血管障害を予防し、健康余命を延ばすのかどうかわかりません。これを確かめるためには、クロード・ベルナールの言葉のように、血糖降下薬を使っている者と使っていない者について、長期間にわたって健康状態を比較観察してみる必要があります。そこで、1960年代に、2型糖尿病の薬剤治療に関する、本格的なランダム化比較研究*(Randomized Controlled Trial、RCT)が行われたのです。
*対象となる被験者をランダム(無作為)に2群(あるいはそれ以上)にわけ、一方の実験群(介入群)には有益と考えられる方法で治療を行い、他方の対照群(比較群)はその治療以外はすべて実験群と同様にあつかって、経過を観察する。服薬治療を行う場合には、実験群には問題となっている薬剤を、比較群には色・形状の似ている偽薬(プラセボ)が与えられる。ランダム化比較研究では、被験者をランダムに実験群と対照群に振りわけるとういうことが決定的に重要である。

UGDP(大学グループによる糖尿病研究)

この研究がUGDP(University Group Diabetes Program)でした。UGDPは、アメリカ国立健康研究所(NIH)が700万ドルの研究資金を助成して行われた、糖尿病に関しては世界初の大規模無作為比較臨床研究です。臨床医、臨床研究者、疫学者、統計学者の緊密な協力のもとに始められ、NIHスタッフも研究に参画しました。UGDPは「薬で血糖を下げることは真かつ善」という予断(思いこみ)をもたずに行われた唯一の糖尿病研究です1)。UGDPの研究者には「インスリンが用いられる前は、生きていくのにインスリンを必要としない糖尿病者(2型糖尿病)は食事療法だけで健康を維持できた。インスリンが使われるようになってから食事療法がおろそかになった。経口糖尿病薬はこの傾向に一層の拍車をかけた。薬剤でこの人たちの血糖を下げるのはほんとうに善いことなのか」という思いがありましたから、ランダム化比較研究によって真実に迫ろうとしたのです。その後現在まで、UGDPに勝る糖尿病の臨床研究は行われておりません。

UGDPは,823人の2型糖尿病患者を無作為(at random)に4群に分けて食事療法あるいは薬剤で治療し、その効果を8年(1961~69)にわたって追跡するという研究でした。しかも、効果判定はdouble blind(二重盲検)で実行されました。その4群とは、

1)プラセボ群:偽薬(乳糖)を服用させる(食事療法だけ)

2)トルブタミド群:1.5gのトルブタミド(SU剤)を2回に分けて服用させる

3)定量インスリン群:最初に体表面積に応じてインスリンの投与量を決め(10~16単位)、この量のインスリンを毎日注射する

4)変量インスリン群:血糖を正常化するのに必要な量のインスリンを注射する(どんな場合にも最低5単位は毎日注射する)

この4群(それぞれ約200名)を8年間追跡調査して,その間の死亡率および死因を検討しました。ただし、UGDPには18ヶ月後に別の経口糖尿病薬フェンホルミンを与える第5のグループが加えられました。したがって、対象とした糖尿病患者の総計は1027人でした。

驚くべきUGDPの結果

観察期間の8年間に89人の患者が死亡しました。その内訳は、プラセボ群21、トルブタミド群30、定量インスリン群20、変量インスリン群18例でした。死亡者はトルブタミド群に多かったものの,その差は有意ではありませんでした。しかし、死因で最も多い心臓血管死亡についてみると, プラセボ群10、 トルブタミド群26、定量インスリン群13,変量インスリン群12でした(下図)。注目すべきは、トルブタミド群の心臓血管死亡が他群より有意に高率であったことと、プラセボ(食事療法のみ)群の死亡が二つのインスリン治療群と同程度であったことです。当初この研究は1975年まで続けられる計画でしたが、2型糖尿病の薬物治療には効果がないとして1969年に打ち切られました。なお、フェンホルミンも過剰の心臓血管死亡を引き起こしました。プラセボ群の死亡が64人中2人(3.1%)だったのに、フェンホルミン群では204人中26人(12.7%)が死亡しました。

また、網膜症などの細小血管障害に対しても、薬剤治療の効果は認められませんでした。UGDPは,2型糖尿病者の薬剤治療が合併症予防と余命延長の効果を示さないだけでなく,内服薬トルブタミド(SU剤)がかえって動脈硬化性の心疾患を誘発する可能性を示唆するものでしたから、「糖尿病の治療=血糖値を下げること」と信じてSU剤を使用していた医学界は驚愕しました*。単に「無効」といわれたのではなく「有害」とされたのです。そしてたちまち、驚きは怒りに転じました。
*このことは日本でも大きな話題となりました。その様子が「後藤由夫 私の糖尿病50年−糖尿病医療の歩み−」に述べられています。

UGDP論争

UGDPの研究結果は1970年6月14日にセントルイスで開かれたアメリカ糖尿病学会(ADA)で発表されました。ADAが学会プログラムと講演抄録を公開する前に、トルブタミドが糖尿病患者の命を縮めているという報道が流れ、製薬会社Upjohnの株価は暴落しました。学会は荒れに荒れました。

糖尿病治療医は困惑しました。15年にわたって自信をもって処方してきたくすりが無効というだけではなく、患者の命を縮めているといわれたのですから我慢がならないお医者さんもいました。年間1億ドルも売り上げていた製薬業界(中心はUpjohn)は怒り狂いました。そして、UGDPを激しく攻撃したのです。攻撃は執拗に行われました。ときに敵意に満ちていました。

UGDP論争とジョスリン・クリニック

糖尿病医学界や製薬業界の反UGDP運動はいかなるものであったか。反対運動の先頭に立ったのがジョスリン・クリニックのブラッドリー(Bradley)博士でした。糖尿病に関する、世界最大の研究機関であるジョスリン糖尿病センターの医師・研究者が中心となって刊行する『ジョスリン糖尿病学』(日本語版第2版)の序文に次のような記述があります。とても大切なことが書かれていますので、長くなりますが序文の一部を引用します。

〈前略〉
Joslin’s Diabetes Medicine(ジョスリン糖尿病学)の初版は1916年に出版された。その初版は、高い見識をもち、献身的でかつ強いエネルギーを備えた人、Elliot P. Joslinが単独で執筆したものであった。Joslin博士はインスリンがいまだ発見される前の1898年に糖尿病患者の診療を始めた。糖尿病に対する適切な治療法のない環境のもとで、Joslin博士は糖尿病の自然歴においてまったく新しい考え方を提示した。この糖尿病への理解はすでに初版から読み取れる。初版の刊行はBanting、Best、Collipによるインスリンの発見より5年も前のことであった。

第3版(英語版)はインスリン発見の直後1923年に刊行された。Joslinはその版の中ですでにインスリン治療の基本原則を把握し、現代の基準からみても正しい実施法を記載していた。当時慢性合併症はその糖尿病治療における重要性はおろか、その存在が知られたのすら何年も後であったにもかかわらず、Joslin博士は代謝学を学ぶ者として、血糖値は可能な限り正常値にしなければならないという揺ぎない信念をもっていた(下線筆者)。彼は治療において糖尿病の患者たちへの教育が非常に大事なものであることを十分に認識しており、患者の治療計画の隅々にまで患者教育を行き渡らせるよう努力した。この時代に厳密な血糖コントロールを達成することがいかに困難であったかを考慮すれば、彼の食事、運動と血糖コントロールとの相互関係についての洞察は抜きんでたものであったことはよく理解できる。彼の記載した低血糖の症状は今日定義されているそれとまったく同じであり、彼は少量の糖質の摂取がインスリンによって起こるその症状を改善することを確認していた。当時の糖尿病を学ぶ真面目な医師たちはJoslin’s Diabetes Medicineの初期の版を一所懸命勉強したのである。

〈中略〉
このJoslin’s Diabetes Medicineの第14版(日本語版第2版)は多くの特別な方々に献呈されている。その第一はRobert F. Bradley博士である。博士は1950年に海軍の勤務を終了した若い臨床家としてJoslin Clinicに参画した。1968年には、Joslin Clinicの臨床部門の主任となった。そして、1977年には完全に統合されたJoslin糖尿病センターの所長に就任した。彼の指導のもと、Joslin糖尿病センターは臨床および研究の両面で絶え間ない発展を遂げた。

Bradley博士の最も重要な業績は、糖尿病治療における経口薬の使用の可否の問題についての1970年代中期の活動であろう。NIHから多額の助成を受けた研究”UGDP”は当時使用されて経口血糖降下薬であるスルホニル尿素薬の安全性に疑問を呈した。実際、研究結果ではこの薬剤が心臓血管死を増加させ糖尿病の治療に適切でないと報告された。Bradley博士は、この結論が数千におよぶ彼自身の糖尿病患者の治療経験と相反することから、UGDP研究に対して挑戦状をたたきつけた。彼の反対運動はただ静かに、個人的発言として行われただけでなく、活発な講演活動などを通じて多くの医師たちの協力を得るなどの社会的立場から行われた。その結果、UGDP研究それ自体が重大な問題点をもっていることが明らかとなり、スルホニル尿素薬は2型糖尿病治療の重要な薬剤であることが確認され、市場に残ることになった。これらの結果から、多数の糖尿病患者が糖尿病の代謝改善の恩恵を受けた。
〈後略〉

ジョスリン博士の教えを忠実に実践し、現実にSU剤が血糖値を下げることを経験していたブラッドリー博士には、血糖を下げる糖尿病薬が心臓血管死亡を招くなどというUGDPの研究結果は絶対に承服できるものではありませんでした。ブ博士はクロード・ベルナールの言葉のよき理解者ではなかったのです。UGDP研究を非難する手紙を糖尿病治療医に送るだけでなく、ブ博士は、「この薬には心血管障害を起こす可能性がある」という米国食品医薬品局(FDA)の見解に反対を表明しました。さらにブ博士は、いわゆるボストン茶会(Boston Tea Party)を催すなどして一般人にもSU剤の有用性を説いたのです。糖尿病学のバイブルとも称される「ジョスリン糖尿病学」の序文に、「Bradley博士は、この結論が数千におよぶ彼自身の糖尿病患者の治療経験と相反することから、UGDP研究に対して挑戦状をたたきつけた。彼の反対運動はただ静かに、個人的発言として行われただけでなく、活発な講演活動などを通じて多くの医師たちの協力を得るなどの社会的立場から行われた」と紹介されているほどにブ博士のUGDP攻撃は凄まじいものでした。

FDAは1971年、すべての経口糖尿病薬に「心血管障害を起こす可能性がある」というラベルを貼付する方針を打ちだしましたが、ブラッドリー博士らの激しい反対運動(差し止め訴訟)によってこの警告を断念しました。ブ博士の反対理由は「FDAは医師の治療に不当に介入して100万人の糖尿病患者の生きる権利を奪っている」というものでした。ジョスリン・クリニックのブ博士は、結果的に、糖尿病患者ではなく、トルブタミドの製造会社を擁護したのです。

UGDP論争の軟着陸

もちろん、当然のことながら、UGDPの研究者たちは自分たちの研究の正当性を主張しました。研究の当事者でもあったNIHは困り果て、1971年、生物統計の専門集団であるBiometric Society(BS、計量生物学会)にUGDP論争の判定を依頼しました。BSは、詳細な分析に4年の歳月を費やして評決を下しました。1975年に公表されたその内容2)は「現在得られる証拠からはトルブタミドとフェンホルミンが糖尿病患者の心臓血管死亡を増やすという疑いを打ち消すことはできない」というものでした。さらにBSは「経口血糖降下剤の継続使用を主張する者にはそれを正当化するだけの科学的な研究を実施する責任がある」と結論したのです。

UGDP論争が決着したわけではありません。FDAは1975年、「心血管障害を起こす可能性がある」というラベルをSU剤に貼付することを決めました。しかし、この薬が市場から消えることはありませんでした。日常の診療でSU剤が血糖を見事に下げることを知っていましたから、医師はあい変わらず、「血糖が高いから合併症が起こる。血糖を下げてどこが悪いのか」と考えてトルブタミドを処方していました。患者は患者で、厳しい食事制限やインスリン注射よりも、簡単なのみ薬を歓迎していたのです。

UGDP研究の結果は忘却の彼方に押しやられてしまいました。唯一残っているのはSU剤の添付書類に使用上の注意が加えられただけです。FDAがすべてのSU剤に「Special Warning on Increased Risk of Cardiovascular Mortality 特別警告:心臓管死亡のリスクが増える」という注意書きの掲載を義務づけたのは1984年のことでした。奇しくもこの年にUpjohnのトルブタミド(商品名:Orinase)の製造特許が切れました。この警告は今(2013年)でも活きています。警告の根拠を記した米国連邦規制基準(CFR)には、UGDP研究の結果が要約されています。なお、日本の【警告】は、「重篤かつ遷延性の低血糖症を起こすことがある。用法・用量、使用上の注意に特に留意すること」となっています。

死亡は糖尿病の最大の合併症です。血糖値がくすりで正常値近くにコントロールされたとしても、心血管障害で死んでしまったらどうにもなりません。UGDP研究は、臨床研究のエンドポイントは、血糖が下がるかどうかではなく、生命予後が改善するかどうかであることを明確に示しましたから、その後の糖尿病の臨床研究に大きな影響を与えました。この点で、UGDP研究の、糖尿病研究に果たした役割の大きさは測りしれません。しかし、わずか40年前のことなのに、UGDPの「薬剤で血糖を下げることはほんとうによいことなのか」という研究主題は霧の彼方に押しやられてしまったのです。

あとで述べますが、糖尿病者の心臓血管発作には低血糖が重要な役割を演じています。薬剤治療で急激に血糖を下げるときは高頻度で低血糖発作が起こります。痛恨の極みですが、UGDP研究ではそれぞれの治療群における低血糖発作の頻度が調べられていません。研究に参加した患者は年に4回医師の診察を受けていたのですが、低血糖に関する調査はUGDPの研究計画にありませんでした。

DCCT(1型糖尿病の血糖管理と合併症に関する研究)

「血糖を正常値近くに下げることによって糖尿病の血管障害を予防できる」という仮説を検証するために、1型糖尿病者を対象にした、大型の無作為比較試験が1983年からアメリカとカナダで行われました3)4)。この研究はDCCT(Diabetes Control and Complications Trial)と呼ばれ、「血糖値を改善すれば糖尿病合併症の発症・進展を予防できる」という臨床家の信念の根拠としてよく引き合いに出される研究です。

DCCTは、インスリン注射の回数を増やして血糖を正常値の近くまで下げることによって、網膜症も腎症も起こっていない患者(一次予防群)ではその発生を予防できるかどうか、すでに軽度の網膜症と腎症が起こっている患者(二次予防群)ではその進展を抑制できるかどうかを3~9年(平均6.5年)かけて調べた研究です。一次予防群の726人と二次予防群の716人をそれぞれ無作為に2群(従来インスリン群と強化インスリン群)にわけて、それぞれに従来のインスリン治療と強力なインスリン治療を行いました。

従来のインスリン治療は、毎日1~2回インスリンを注射して高血糖による症状(のどの渇きなど)が出ないことを目標にしました。一方、強化インスリン治療は、1日4回以上の血糖自己測定を行って注射するインスリンの量を調整し、食前の血糖値が120mg/dl以下、食後血糖値が180 mg/dlを超えないように、血糖を厳格にコントロールしました。

その結果、心筋梗塞などの大血管障害には差がなかったのですが、強化インスリン治療を行ったグループではHbA1cが低く、合併症(網膜症と腎症)の発生が少なく(一次予防)、その進展が抑制される(二次予防)という結果になりました。強化インスリン治療の血糖降下作用はまさに強力でした。下のが示すように、研究が始まった時点でのHbA1cは両群ともに約9%でした。治療開始後には、従来治療群のHbA1cは9%前後で推移しましたが、強化治療群では6ヶ月後に7%になり、その後も7%前後に維持されました。

下図はHbA1cと網膜症の関連性を示したものです。網膜症の進展は、HbA1cが8%まではほとんど変わらず、9%を超えると倍増します。一見すると網膜症の発生・進展には閾値(HbA1c=8%)が存在するようですが、DCCTの研究者たちはHbA1cと網膜症の関係は連続的である、すなわち、網膜症の進展を抑えるには血糖値をできるだけ正常値(6%)近くに抑えたほうがよいと考えたのです。

このような結果から、1型糖尿病ではインスリンを使って血糖値を正常値近くに管理することが重要であると言われるようになりました。

ただし、すでに網膜症が発生している人の血糖値を急激に下げると、その網膜症がたちまちのうちに悪化してしまうことが知られています(「こんな糖尿病治療はこわい」)。上図のデータは強化治療群におけるHbA1cと網膜症の関係です(従来治療群のデータは含まれていません)。強化治療群の患者たちは血糖値によって注射するインスリン量を調整するという厳格な血糖管理を行っていました。この図の右上の点はあまりにも孤独で他と連続性がありません。この点の人たちは血糖があまりにも高いのでインスリン量を増やして血糖値を下げたのではないか、そのためにこの人たちの網膜症が進展したのではないかという解釈も可能であることをつけ加えておきます。

血糖厳格管理の難点 ― 低血糖発作

DCCTによって、強化インスリン治療が1型糖尿病の標準治療になりましたが、このような治療には大きな問題が包含されていることもわかりました。血糖値を正常値近くに下げることによって低血糖発作が起こりやすくなることが明らかになったのです。強化インスリン治療群における低血糖発作の頻度は従来インスリン治療群の3倍でした。人の助けを必要とするほどの発作は、100人・年あたり、従来群で19回であったのに、強化群では62回起こりました。このうち、昏睡やけいれんをともなう重症の発作は従来群で5回、強化群で16回でした。100人・年あたりの数値は、100人を1年(あるいは10人を10年)観察したときに発生する頻度です。強化インスリン治療がいかにたいへんな治療法であるかということがおわかりいただけるでしょう。強化治療に割り当てられた患者は毎週1回、午前3時に血糖値を測って、その値が65mg/dl以下にならないように指導されていたのに、頻繁に低血糖発作が起こったのです。上に掲げた数字は人の助けを必要とするほどの重い発作の件数です。申告されない、無自覚の低血糖発作はさらに頻繁に起こっていたことでしょう。

また、何らかの原因で死亡した人の数(総死亡数)は従来療法群の4人に対して、強化療法群では7人でした。しかし、この違いは統計学的に有意な差ではありません。低血糖発作の心配がありますし、1日に何回も血糖測定とインスリン注射を繰り返すのは大変なことですが、DCCTによって初めて、厳格な血糖管理が網膜症・腎症などの発症と進展の防止に役立つことが明確になったと言われるようになりました。だからといって、DCCTの結果から一概に、強化治療は通常治療にまさるとは断言できません。1型の糖尿病者にとっては数年先の網膜症も心配ですが、今日にも起こりかねない低血糖のほうがもっと怖いのです。

あくまで1型糖尿病についての話だったのですが、血糖値をできるだけ正常値に近づけると合併症が予防できるというDCCTの結果に糖尿病医学界は熱狂しました。食事療法や運動療法を指導することは医師でなくてもできます。医師の特権はくすりの処方することにあります。くすりを処方できるからこそ医師なのです。患者が圧倒的に多い2型糖尿病にも厳格な血糖管理を行おうとする機運が高まりました。UGDP論争が始まってから20年以上もたっていました。

EDIC研究(DCCT後の経過観察研究)

DCCTは1993年に終了しましたが、この研究に参加した1型糖尿病者の93%について、その後も経過観察が行われました。この経過観察はEDIC研究*と呼ばれ、その結果が2005年に報告5)されました。これによると、経過観察中に発生した心筋梗塞や脳卒中などの大血管疾患は、DCCTで最初に強化インスリン治療に割りあてられていた患者群よりも通常インスリン治療に割りあてられた患者群に多かったというのです。EDICの研究者たちは、1型糖尿病の血糖を早期に下げるとその効果が10年以上持続すると解釈して、この現象をmetabolic memory(代謝の記憶)と呼びました。
*EDIC: Epidemiolgy of Diabetes Interventions and Complicationsの頭文字

DCCTで、強化インスリン治療が網膜症や腎症などの防止に有効ということになりましたから、最初に従来のインスリン治療を受けていた糖尿病者は、研究終了時に、強化インスリン治療に切り替えるように勧められました。その結果、この人たちのHbA1c(平均値)は、DCCTが終了した1993年には9.1%でしたが、EDICの11年目(2004年)には7.8%へと大きく低下しました。EDIC研究11年目の、最初から強化インスリン治療を受けていた人たちのHbA1cは7.9%でしたから、DCCTで従来治療を受けていた人たちのHbA1cは強化治療を受けていた人たちの数値よりかえって低くなっています(ただし、両群の値に有意差はありません)。DCCTの従来治療群に割りあてられていた人たちの血糖値が、強化インスリン治療に切り替えたことによって血糖値が大きく下がった様子がよくわかります。

世の中には、視点を変えると、同じものを見ていても全く違う景色が見えてくることがあります。DDCT/EDICがそうでした。

治療方法が大きく変わったので、EDICは治療企図解析(intention-to-treat analysis)という方法でまとめられました。つまり、実際にどのような治療を受けたかどうかではなく、DCCTで最初に割りあてられた治療法がそのまま行われたものとして解析されたのです。DCCTの従来インスリン治療群はEDICでは強化インスリン治療群になりました。別の視点からEDICを眺めると、心筋梗塞や脳卒中などの大血管発作は新たに強化インスリン治療を受けた1型糖尿病者(=かつてDCCTで従来インスリン治療を受けていた人たち)に多かったということになります。新しい強化インスリン治療群には低血糖発作が頻発したことでしょう(ただし、EDIC論文は低血糖発作について一言も触れていません)。糖尿病歴の長い人たちの血糖を急激に下げると、低血糖発作によって大血管障害が誘発されることはよく知られた事実です6)。血糖を下げることが「絶対的善」と信じていたEDICの研究者には、あらかじめ見たいと思っていたことしか見えなかったのでしょう。

UKPDS(英国前向き糖尿病研究)

UGDP論争がにぎやかな1970年代に準備され(開始は1977年)、ほぼ20年間にわたって2型糖尿病者を対象にして実施された大規模臨床比較研究があります(UKPDS; United Kingdom Prospective Diabetes Study)。UGDP論争で取りあげられた問題に応えようと計画された研究ですから、糖尿病医学界はその結果をすがりつくような念いで見守っていました。

UKPDSの研究デザインは複雑ですが、おおよそつぎのように行われました。新たに2型糖尿病と診断され、3ヶ月の食事療法を行ったあとの空腹時血糖値が120-270mg/dlの3867人が研究に参加しました。参加者をランダム(無作為)に2群に分け、一方はそのまま食事療法を続け、空腹時の血糖値が270mg/dlを超えるか、高血糖の症状(口渇や多尿など)が現れたときに薬物投与を行いました(従来治療群)。もう一方は、最初から薬剤(3種類のSU剤とインスリン)で血糖を厳格にコントロールして、空腹時の血糖値が108mg/dlを超えないようにしました(強化治療群)。そして、平均して10年間観察した結果が、1998年、医学誌ランセットに報告されました7)

食事療法だけの従来治療群に比べて、強化治療群(SU剤とインスリン)でリスクが減少したのは、光凝固を要するほど重篤な網膜症だけでした(1000人・年あたりの発生件数は、従来治療群11に対して強化治療群8)。脳卒中にも、心筋梗塞にも、腎不全にも、失明にも、両群で有意の差はありませんでした。また、治療のエンドポイントとして最も重要な総死亡数を1000人・年あたりでみると、従来治療群の19に対して強化治療群は18で、薬剤で血糖を厳しく管理しても、死亡数が減るという結果は得られませんでした。また、これは当然ですが、強化治療群では、従来治療群に比べて低血糖発作が高頻度で起こりました。一方、肥満者にメトホルミンを使った場合には、網膜症には有意の効果は認められなかったものの、心筋梗塞も総死亡も減少したという結果が得られました。欧米ではこれ以降、肥満の2型糖尿病に対する第一選択薬はメトホルミン*ということになっています。
*メトホルミン:ビグアナイド系の経口糖尿病治療薬(インスリン抵抗性改善薬)。肝臓における糖新生を抑制するとともに細胞内脂肪をエネルギー源として燃焼する方向に作用する。現在では有効性と安全性が再評価され、日本でもメトホルミンを糖尿病の第一選択薬と考える糖尿病専門医が増えています。

しかしながら、UGDPでリスクを高めるとされたSU剤(グリベンンクラミド、クロルプロパミド、グリピジド)を使っても、UKPDSでは心筋梗塞の発生件数が増えることはありませんでした。このことだけでも糖尿病医学界は胸をなでおろしました。なにしろ、UGDPではSU剤は無効というだけならまだしも有害とされていたのですから。害がないのなら、薬剤で血糖値を正常値近くに下げたほうがよいとする意見が再び医学界の主流になりました。

ただし、UKPDSの研究方法は非常に複雑でした。従来治療群と強化治療群のいずれに対しても、血糖値の目標が達成されなければ、段階的に他の治療が追加できるようにデザインされていました。強化治療群には、種類の異なる3種類のSU剤やインスリン治療を含めた多数の治療群が含まれていました。肥満の糖尿病患者にはメトホルミン治療も行われました。

その結果、強化治療を受けていた患者の相当数が異なった薬剤を追加されるか、あるいは当初のものとは異なる別の強化治療に変更されました。また従来治療(食事療法)を受けていた患者においても、その大多数が1つかそれ以上の薬剤治療(SU剤とインスリン)を受けることになりました。強化治療群において血糖値をできるだけ低く保とうとしたUKPDSの研究デザインが、治療方法別の比較検討を困難にしてしまったのです。さらに、メトホルミンの追加、アカルボースの使用、高血圧に対する介入試験が加わって、UKPDSの研究結果の解釈はさらに一層難しくなりました。

UKPDSが終了してから行われた10年間の経過観察の結果が2008年10月、New England Journal of Medicineに発表8)されました。その結果は、糖尿病治療において早期にしかも強力に血糖をコントロールすることがいかに大切かということを示したものとして糖尿病関係者の大歓迎を受けました。

UKPDS終了後の経過観察も、DCCTの項で述べたような治療企図解析(intention-to-treat analysis)でまとめられました。つまり、実際にどのような治療を受けたかどうかではなく、最初に割りあてられた治療法が研究終了後もそのまま続けて行われたものとして解析されたのです。その結果、最初からSUあるいはインスリンで血糖を下げた強化治療群では、最初は食事療法のみの従来療法群に比べて、細小血管障害(網膜症や腎症)だけでなく心筋梗塞や総死亡が有意に減少していました。このことから、この論文の著者たちは、糖尿病の早期に血糖を厳格にコントロールすると糖尿病合併症の進展を防止できると結論し、この現象をlegacy effect(遺産効果)と呼びました(1型糖尿病を対象にしたDCCTでも同様な現象が観察され、metabolic memoryと名づけられたことは前述の通り)。しかし、実際は、従来治療群の糖尿病者の多くが、中途からSU剤やインスリンで血糖をコントロールされていたことは上に述べた通りです。

悩める糖尿病治療(ACCORD、ADVANCE、VADT

実は、上記のUKPDSの経過観察結果が発表されるより少し前(2008年6月)に、同じ医学誌(New England Journal of Medicine)に発表された研究結果9)が糖尿病関係者に大きな衝撃を与えていたのです。38年前のUGDPショックの再来でした。この研究はアコード(ACCORD)と呼ばれ、2型糖尿病者の血糖値を厳格に管理したら心血管疾患が減るかどうかを調べるためにアメリカとカナダで実施された大規模ランダム化比較研究です。この研究は、アメリカ国立心・肺・血液研究所などアメリカ国立健康研究所(NIH)の支援を受けて行われました。血糖を厳格に管理した糖尿病者に心血管死亡が増えるという結果でしたから、5年間追跡する計画のアコード研究は3年7ヶ月で打ち切られてしまったのです。

心血管疾患のリスクを抱えている2型糖尿病患者(平均年齢 62.2歳、平均HbA1c 8.3%)10251人を2群に分けて、一方はHbA1cが正常値(6.0%未満)になるように厳しく血糖を管理し(強化治療群)、他方はHbA1cが7.0~7.9%におさまるように穏やかに治療しました(標準治療群)。アコード研究の総括を下図に示します。

血糖を厳しく管理するためにインスリンやSU剤が使われましたから、強化治療群では低血糖発作が頻繁に起こりました(標準治療群の3倍)。医療を要するほどの重症低血糖発作は、標準治療群では179人(3.5%)、強化治療群では538人(10.5%)に起こりました。アコード研究は、低血糖発作を引き起こすほどの厳格な血糖管理が2型糖尿病者の死亡リスクを高めることを示しています。サブ解析で、重症低血糖発作は直近のHbA1cが高かったものに多く発生していたことがわかりました。HbA1cを目標値に近づけるために薬の量を増やしたり追加薬を処方したりしたことが低血糖発作を誘発したのです。

アコード研究と同じころに行われた、強化治療と標準治療を比較するためのアドバンス(ADVANCE)とブイエイディーティー(VADT)というランダム化比較研究でも、5-6年にわたる厳格な血糖管理が死亡、心血管疾患、細小血管合併症を防ぐという結果は得られませんでした。これらの研究でも、強化治療が低血糖発作を招き、結果として心血管疾患を誘発している可能性が示されています。

アドバンス研究は、グリクラジド(Gliclazide)というSU剤による強化治療の有効性を確認するためにヨーロッパとアジアを中心に20カ国で11140人の2型糖尿病者(平均年齢 66歳)が参加して行われた、国際的大規模研究です10)。強化治療群にはHbA1cを6.5%以下にするという目標が設定され、標準治療群には各地域のガイドラインに沿った治療が行われました。5年の観察終了時のHbA1cは、強化治療群6.5%、標準治療群7.3%でした。グリクラジドによって強化治療群の血糖値は下がったものの、大血管障害と総死亡については強化治療と標準治療の間で有意の差は認められませんでした。最小血管障害に関しては、グリクラジドによる強化治療は網膜症の進展防止に効果はなかったが、腎症(尿アルブミン/クレアチニン比で判定)の発生・進展の防止効果があったと結論されています。アコードに比べると、アドバンスでは低血糖発作が少なく、他人の助けを必要とするほどの重症発作を起こした被験者の割合は強化治療群で2.7%、標準治療群で1.5%でした。

VADTは、病歴が長く心血管疾患のリスクを抱えている2型糖尿病患者に厳格な血糖管理を行ったら、はたして心血管疾患の発症が抑制されるかどうか追跡したランダム化比較研究です11)。2型糖尿病の退役軍人1791人(平均年齢 60.4歳)が研究に参加しました。強化治療群と標準治療群の間でHbA1cに1.5%の差がつくように血糖管理を行うことを目標としました。研究開始時のHbA1c値は9.4%でしたが、追跡終了時には強化治療群6.9%、標準治療群8.4%となり、HbA1cの群間差1.5%は達成されていました。しかし、心血管疾患の発生にも、全死因の死亡率にも群間で有意な差はありませんでした。さらに、網膜症、腎症などの細小血管合併症の発生率にも差は認められませんでした(ただし、アルブミン尿の発生は、標準治療群に比べて、強化治療群に少なかったということです)。低血糖発作は、標準治療群に比べて、強化治療群で3倍ほど多く発生しました。100人・年あたりの低血糖発作の発生は、意識障害を伴う発作が標準治療群の3に対して強化治療群では9、完全な意識喪失は1に対して3、夜間の発作は44に対して152でした。

ACCORD、ADVANCE、VADTの3研究に関して、アメリカ糖尿病学会(ADA)は「病歴が短く、動脈硬化が進んでいない2型糖尿病者は強化治療によって心血管疾患に関して利益を受けるかもしれないが、病歴が長い・重症低血糖発作を起こしたことがある・動脈硬化が進行している・高齢者や虚弱な人たちでは強化治療によるリスクが利益を上回る可能性がある」という意見表明12)を行っています。

バック・トゥ・ザ・フューチャー(BACK TO THE FUTURE)

現在では、インスリン・SU剤・メトホルミン以外に、たくさんの血糖降下薬が使われています。1型糖尿病にはインスリンが絶対的に必要です。しかし、2型糖尿病に関しては、薬剤で血糖を正常値近くまで下げることがほんとうに良い(健康余命を延長する)ことなのかどうかまだわかっていません。

先に述べたように、SU剤が心血管障害を起こしたために途中で打ち切られたUGDP研究は「血糖を下げることは善」という予断をもたずに行われた、唯一の大規模無作為化比較研究でした。「薬剤で血糖を下げるのはよいことか」という糖尿病治療の根源的な問題をめぐるUGDP論争は「SU剤は血管障害を起こす可能性がある」という警告を遺しただけで幕引きが図られてしまいました。この意味で、UGDP論争は現在も継続しています。 

糖尿病の人たちには血管障害が多く、糖尿病が本当に怖いのは血管障害が起こるからであると言われています。お医者さんや研究者が把握している「糖尿病の人たち」はそのほとんどが病院や診療所で糖尿病の治療を受けている患者で、何らかの薬剤で血糖を下げる治療を受けている人たちです。つまり、「糖尿病+薬剤」が血管障害を起こすことは間違いないにしても、その原因は高血糖なのか、薬剤による低血糖なのか、あるいは薬剤の副作用なのか明らかではありません。 

クロード・ベルナールの言葉を真似るとつぎのようになります。しばしば医学者は、糖尿病によって血管障害が起こると言明しています。しかしながらこの際、医学者に尋ねたいことがあります。それは薬をのませなかった場合を試してみたかどうかということです。なぜかというと、もしそうでなかったならば、血管障害が起こったのははたして血糖が高かったからなのか、あるいは薬で血糖を下げたからなのか、それとも薬の副作用によるものなのか、どうして知ることができるのでしょうか。 

「糖尿病」の人には認知症が多い、がんの発生が多いという言説を聞いたことがあるでしょう。「糖尿病」になると認知症やがんになりやすいということをはっきりさせるためには、「糖尿病」と言われている人を2群に分けて、片方はインスリンなどの薬剤で治療しもう一方には運動・食事のみを処方して、両群の認知症やがんの発生率を糖尿病でない人の発生率と比べてみる必要があります。しかし、今までにこのような研究が行われたためしはありませんし、今後とも行われる可能性はありません。

糖尿病の研究者が「認知症が多い、がんが多い」というのは、糖尿病患者と糖尿病でない人で発生率を比べているだけなのです。糖尿病の専門家が研究対象として把握している「糖尿病」はくすりが処方されている患者です。したがって、「糖尿病」と「糖尿病でない人」を比べたところでその結果が高血糖によるものなのか薬剤によるものなのかはっきりしないのです。 

最後に、クロード・ベルナールの言葉をもう一度掲げます。

しばしば医学者は、自分が用いた医薬によってすべての病人を治したと言って自慢している。しかしながらこの際、彼らに尋ねたいことがある。それは彼らは同時に病人に手当を施さなかった場合を試みたかどうかということである。なぜかというに、もしそうでなかったならば、なおしたものははたして医薬であったか、それとも自然であったか、どうして知ることができよう。

文献

1) The University Group Diabetes Trial. A study of the effect of hypoglycemic agents on vascular complications in patients with adult onset diabetes. I. Design, methods, and baseline results. II. Mortality results. Diabetes 19 (Supplement):747-830, 1970.

2) Report of the Committee for the Assessment of Biometric Aspects of Controlled Trials of Hypoglycemic Agents. J Amer Med Assoc 231:583-608, 1975.

3) The DCCT Research Group. The Diabetes Control and Complications Trial (DCCT). Design and methodologic considerations for the feasibility phase. Diabetes 35:530-45, 1986.

4) The Diabetes Control and Complications Trial Research Group. The effect of intensive treatment of diabetes on the development and progression of long-term complications in insulin-dependent diabetes mellitus. N Engl J Med 329:977-86, 1993.

5) Nathan DM, Cleary PA, Backlund JY, Genuth SM, Lachin JM, Orchard TJ, Raskin P, Zinman B; Diabetes Control and Complications Trial/Epidemiology of Diabetes Interventions and Complications (DCCT/EDIC) Study Research Group. Intensive diabetes treatment and cardiovascular disease in patients with type 1 diabetes. N Engl J Med 353(25):2643-53, 2005.

6) Goto A, Arah OA, Goto M, Terauchi Y, Noda M. Severe hypoglycaemia and cardiovascular disease: systematic review and meta-analysis with bias analysis. BMJ. 2013 Jul 29;347:f4533. doi: 10.1136/bmj.f4533.

7) UK Prospective Diabetes Study (UKPDS) Group. Intensive blood-glucose control with sulphonylureas or insulin compared with conventional treatment and risk of complications in patients with type 2 diabetes (UKPDS 33). Lancet 352(9131):837-53, 1998.

8) Holman RR, Paul SK, Bethel MA, Matthews DR, Neil HA. 10-year follow-up of intensive glucose control in type 2 diabetes. N Engl J Med 359(15):1577-89, 2008.

9) The Action to Control Cardiovascular Risk in Diabetes Study Group. Effects of intensive glucose lowering in type 2 diabetes. N Engl J Med 358(24):2545-59, 2008.

10) The ADVANCE Collaborative Group. Intensive blood glucose control and vascular outcomes in patients with type 2 diabetes. N Engl J Med 358(24):2560-72, 2008.

11) Duckworth W, Abraira, Moritz, T, et al. for the VADT Investigators. Glucose control and vascular complications in veterans with type 2 diabetes. New Engl J Med 360 (2):129-39, 2009.

12) Skyler JS, Bergenstal R, Bonow RO, Buse J, Deedwania P, Gale EAM, et al. Intensive glycemic control and the prevention of cardiovascular events: implications of the ACCORD, ADVANCE, and VA diabetes trials: a position statement of the American Diabetes Association and a scientific statement of the American College of Cardiology Foundation and the American Heart Association. Diabetes Care 32(1):187-92, 2009.


トップ

ご意見