がんについて

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がんは「避けられない病気」であるが「予防可能な病気」でもある

繰り返すが、ガンは遺伝子(DNA)の病気である。遺伝子の傷害がある一つの臓器の細胞にだけ起こって、他の臓器の細胞に起こらない筈はない(「筈はない」というのは非科学的であるが、程度の差はあれいずれの臓器の細胞の遺伝子にも似たような変化が生じていると考えた方が蓋然性が高いというほどの意味である)。これらが目に見えるほどに大きく生長したものが「多重がん」(同一臓器に発生する「多発がん」と異なる複数の臓器に発生する「重複がん」がある)と呼ばれる病態である。それぞれの臓器あるいは臓器内の部位によってがんの生育速度が異なるので、一見「多重がん」は珍しいような印象を受ける。しかし、がんの性質を考えれば「多重がん」はむしろ一般的であって例外ではない。具体的に言えば、胃に早期がんといわれる病変が見つかり、これが「ほんもののがん」であった場合には、他のいろいろな臓器にもそれと同程度かあるいはもっと目立たない隠れた病変(したがって発見されない)が存在する。その人は胃を全部切除することによってたとえ死亡診断書の死因欄に胃がんと記載されなくても、他の病気で死なない限りいずれがんで命を失う可能性が大きい。暗澹たる気分になるが、それが人間の一生である。

人間は必ず死ぬ。「がん死」は人間がこの世を去る道の一つである。お年寄りの「がん死」は「自然死」に近い。脳にでも転移しない限り意識は最期まで清明である。食を断って自らの死期を定めることもできる。例外はあるが、骨にでも転移しない限り、がんの末期は世間の人が思うほどには痛まない。疼痛が現われたらモルヒネというまことによく効く薬剤がある(もちろん、モルヒネが効かない「がん疼痛」もある)。一時期、「ピンピンコロリ」が流行ったが、最近は著者の周辺で「がんで死ぬのも悪くはないな」という人が増えた。「ピンピンコロリは困る、最期に世話になったひとにありがとうの一言も言わずに死んでしまうなんて」というのだ。

がんは「避けられない病気」である。どんな人でも長く生きていればがんになる。ヒトが酸素と太陽光で生きている生物であるからだ。酸素と紫外線だけではない。私たちの吸う空気、口にする飲食物には多数の発がん物質が存在する。その最たるものが昨今では「たばこの煙り」ということになっている。前立腺や甲状腺のように小さな臓器は死後くまなく検査することができる。80歳以上の人で、がん以外の原因で亡くなったひとのこれらの臓器を詳細に調べると、50-80%のひとにがんが見つかる。この人たちはがんにはなったが、がんでは死ななかったのである。肺や肝臓でもくまなく検査すれば、かなり高率にがんが発見されるだろう。

がんになってもがんで死なければよいのだ。がん細胞ができても、死にいたるほどに増殖しなければよい。90歳を超えてがんで死ぬんなら、「まあそれも仕方がないか」と諦めもつく。この意味で、がんは「避けられない病気」であるが「予防可能な病気」でもある。この場合の予防とは「がんになってもがんでは死なない」という意味である。そんな予防方法があるのかと不思議に思われるだろう。ところがあるのだ。毎日の食べ物-日常茶飯-ががんの生長速度を決める(もちろん例外はある。どんなことをしても若くしてがんで亡くなる不運な人はいる)。食べ物による「がんの予防」は別のちころで述べるので、まずここでは現在のがん治療をざっと眺めてみる。

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がんの治療

読者の中には「がんには手術だ」と思っている方もおられるだろう。このような考えがどこから来たのか少し考えてみたい。近代医学の基本的原理とされている「早期発見・早期治療」というパラダイムはローベルト・コッホの結核菌の発見によって始まった(1882年)。ある病気には必ず一つの特異的な原因があり、その原因を除けば病気が治るという考え方である。この近代医学のパラダイムは次々と発見される病原性微生物、ビタミンなどの栄養素、さらにはホルモンの発見によってますます揺るぎない強固なものとなった。

その後の70-80年は伝染病と栄養不良の時代とも呼べるもので、近代医学は病気に対する闘いにおいて赫々たる戦果を挙げた。最強の武器は抗生物質であった。抗生物質はまさに「魔法の弾丸」であった(大手術が行えるのうになったのもこの「魔法の弾丸」があったればのことである)。戦前の日本人の主たる死因は伝染病であった(表3)。日本では1951年に、宿痾であった結核が死因順位の一位の座を脳血管疾患(脳卒中)に譲って伝染病の時代が終焉に向かった。

伝染病や栄養不良に起因する疾病に対して、近代医学の方法論が卓効を示したのは、病気の原因が体外にあったからである(外来性の病気)。1960年以降はがん、脳卒中(脳血管疾患)、心臓病などのいわゆる成人病(最近は生活習慣病という)の時代であったが、近代医学は従来の方法論に固執した。結核に対する早期発見・早期治療という対応はがんに対しても引き継がれた。がんは内なる病気である。この内なる病気ーがんーに対しては伝染病に対する方法が通用するはずもないのに、「根治手術」なる言葉すら誕生したほどである。「ガンは病巣の切除によって根治する」という考えは奈辺から生まれたのだろうか。やはり、コッホの結核菌発見(1882年)に行きつく。抗生物質に比べれば、その後に開発された先端医療技術の、人間の生死に与える影響力はほんの微々たるものに過ぎない。

抗生物質の登場によって人間の病気が変わった。がんは生理的老化と深く結びついた生活関連疾患であり、医療は死を先送りする程度の役割しか果たせなくなった。さらに、これからは高齢者の増加に伴って老年者固有の退行性病変(障害)が主流になっていく。これには今までの医師中心の医療は手も足も出ない。医師の特権的地位の下落は必至である。ために医学界は新たな魔法の弾丸を求めて狂奔している。移植医療という弾丸は高価であるばかりか、すぐ弾丸切れになる。それでは今大流行のバイオサイエンスから第二の魔法の弾丸が生まれるか?答えは限りなく否に近い。バイオサイエンスはビジネスにはなる。しかしその手法は家畜や栽培植物の改変はできても人間の医療には向かない。医学は全く別の手法でこれからの時代に対処しなければならなくなった。

手術はがんに有効か。有効性を証明するためには綿密な臨床研究が必要である。がん患者を無作為(くじびき)に2群に分けて、1群に切除手術を行い(手術群)、他の1群は他の治療法(放射線あるいは抗がん剤治療)を行って観察する(対照群)。その後、両群の患者の生活の質(Quality of life、QOL)と生存率を経年的に観察する。手術群のQOLと生存率が対照群を上回っていれば、その手術は他の治療法よりも有効と判断される。現在では、この無作為割り付け臨床試験(=くじびき臨床試験)と呼ばれる手法は、臨床医学研究には欠かすことができない方法論となっている。この手法が用いられなければいかなる治療法の有効性も科学的に実証されたとはいえない。しかし、がん手術の有効性をくじびき試験で実証することは至難というより不可能である。一般人はもちろん、外科医も「がん治療の第一選択肢は手術」と信じて疑わないからである。外科医は「とれるがんはとる」のである。外科医が「がんにはまず手術」と信じいるのはなぜか。がんに対してなぜ手術が有効と考えているのか。答えていわく、身体に悪いところがあれば切り取るのが外科医の仕事だ、手術はがん治療のprofessional standardである、がんと診断して何もしないというのは外科医の倫理に悖る、などであろう。

転移のあるがん(ほんもののがん)の手術をして患者が1年後に死んだとする。患者の家族は言うだろう。「手術しなければ半年しかもたなかっただろうに、手術のおかげで1年も生きられた」と。どうしてそんなことが言えるのかと問えば「お医者さんがそうおっしゃったから。できるだけのことをして上げたかったから、そうとでも考えなければやり切れない」と。もしこのことが先験的に分かっているのであれば外科医の悩みは大きい(実際に悩んでいる外科医は少なくない)。「この患者のがんは末期がんである、手術しなければ半年余りの命である、しかし少なくとも数カ月は普段の生活ができるだろう。手術をすれば1年は生きられよう、しかし間もなく再発して患者の苦しみは大きくなる、ベッドを離れての生活はおそらく数カ月であろう」。このことを患者に告げるべきか、告げざるべきか。がんであることを告げて、手術をしないと言えば、「手術ができないほど悪いのか」と患者と家族は苦悩する。家族に責められて結局、外科医は患者の身体にメスを入れる道を選択する。これは、とくに一般人(患者・家族)の脳裏に「がん=手術」という図式が強く染み込んでいるからである。プロフェッショナルは、何もしないということも含めて、がんには手術以外に第二、第三の選択肢があることを患者・家族に示さなければならない。そして何より一般人の「がん=手術」という思い込みを打ち破る必要がある。この点で、近藤氏の『患者よ、がんと闘うな』は正鵠を射ている。

昔は、奥さんのがんを旦那にいうのはいいが、旦那のがんは奥さんに言うなとされていた。奥さんに告げると表情・態度ですぐそれと覚られてしまうというのだ。しかし、実際は逆で、本当は男の方が臆病である。女性は一時的に動揺しても間もなく胆がすわる。男でも、自分のことであったら、夜は一人で枕を濡らしても、昼間はシャンとしていられる(やせ我慢だけが男の取り柄である。だが最近はやせ我慢のできない男が多くなった)。男は、ことが奥さんのことになると、いつまでたってもオロオロしている。しかし、男を責めないで欲しい。これは男の性である。人間の男のほとんどは半端者である。

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