日本人と牛乳

ハリスは牛乳を飲めなかったが、日本人は牛乳を飲まなかった

1856年8月〜1962年5月にかけてアメリカの駐日総領事(後に公使)として伊豆の下田に滞在したタウンセンド・ハリス(Harris)は、日本人の牛乳に対する考えに驚愕した。ハリスが下田奉行・井上信濃守に牛乳の手配を申し入れたところ、奉行は通訳・森山多吉郎*を通じて牛乳の差配を断固拒絶したのである。ハリスの『日本滞在記(中巻)』(坂田精一訳:岩波文庫、1954年)の訳註に次のような文章がある(以下のやりとりは大日本古文書「幕末外國關係文書」之十四」に所載のものという)。さして難解な文章ではないからそのまま引用する。
*森山多吉郎:改名前は栄之助。幕末に外国との交渉で活躍した通訳兼外交官。

此方(森山多吉郎)「このほど當所勤番の者へ、牛乳の儀申立てられ候趣をもって、奉行へ申聞け候ところ、右牛乳は、国民一切食用致さず、殊に牛は土民ども耕耘、その外山野多き土地柄故、運送のため飼いおき候のみにて、別段蕃殖いたし候儀更にこれなく、稀には兒牛生まれ候義これあり候ても、乳汁は全く兒牛に與え、兒牛を重に生育いたし候こと故、牛乳を給し候儀一切相成りがたく候間、斷りにおよび候」

彼方(ハリス)「御沙汰の趣承知仕り候。さやうに候はば、母牛を相求めたく、私手許にて乳汁を絞り候やうに仕るべく候」

此方(森山)「只今申入れ候通り、牛は耕耘其外運送のため第一のもの故、土人ども大切にいたし、他人に譲り渡し候儀決して相成りがたく候」

彼方(ハリス)「相成りがたき儀に候はば、致方これなく候。尤も食用其外差支えの品追々申立つべき儀もこれあり候はば、相叶ひ候だけは、御配慮下されたく相願い候」

此方(森山)「承知いたし候。整い候分は、幾重にも手當つかはさるべく候」

彼方(ハリス)「ヤギは當地にこれあり候や」

此方(森山)「當表は勿論、近國にも一切これなく候」

彼方(ハリス)「左候はば、香港より取りよせ、このへんの野山へ差置き候ひては如何これあるべきや」

此方(森山)「山野へ放飼いの儀は相成りがたく候」

彼方(ハリス)「構内へ差置き候儀は、如何に御座候や」

此方(森山)「豕(ぶた)同様のもの故、構内へ差置き候儀位の儀は苦しかるまじく、放し飼ひは相なりがたく候」

「牛乳は子ウシが飲むもので、人間の飲むものではない」という下田奉行の指摘は鋭い。このことが本書の主題である。よって、ハリスと森山の「牛乳問答」を冒頭に掲げた。

下婢として雇われたきち(お吉)が牛乳を集めてハリスに差し入れたという話もあるが、真偽のほどはわからない。はっきりしていることは、当時の日本人は自分たちのために働いてくれるウシの乳汁を食用にするなどという習慣を持っていなかったということだ。アメリカ船やロシア船が下田に寄港したので、ハリスはハムなどの加工肉製品や塩蔵肉には不自由しなかった。また定期的に、下田の奉行から、猪・鹿・雉・山鳥など猟の獲物が届けられていたから、ハリスは新鮮な禽獣の肉も食べていた。ニワトリとブタを飼っていたことが滞在記に記されているが、ヤギについての記録はない。しかし、奉行の「苦しからず」の言葉があるから、ハリスはヤギを飼育してその乳汁を飲んでいたことだろう。

『日本滞在記』で明らかなように、日本の古来の食文化にはウシの体液(乳汁、ミルク)を食用に供するという伝統・習慣はなかった。もちろん、この滞在記に書かれているように、日本の農村でも牛馬は飼われていた。しかし、日本の牛馬はもっぱら農耕・運搬用であって、その乳汁を飲んだり、屠畜して肉を食ったりするなどということはなかったのである。


日本人などのアジア人はもともと牛乳を飲めない

日本人を含めほとんどのアジア・アフリカ人が乳・乳製品を生きる糧(かて)としてこなかった証拠に、この人たちが牛乳を飲むとお腹がごろごろ鳴って痛くなるという症状が現れる。日本人は生まれつき牛乳が飲めないのである

哺乳類のミルクには乳糖(ラクトース)と呼ばれる不思議な炭水化物(糖質)が含まれている。乳糖は2つの単糖(ガラクトースとグルコース)からなる2糖類で、自然界ではミルクの中にだけ存在する。乳糖がミルクに含まれている理由は、生後急速に成長する哺乳類の子どもが細胞膜の構築のため、その成分としてガラクトースを要求するかららしい。しかし、離乳期が過ぎると必要なガラクトースは肝臓でグルコースから作られるようになる。したがって、離乳後の動物に乳糖は不要である。

ミルクの乳糖は小腸上半部(空腸)の粘膜上皮に存在する乳糖分解酵素(ラクターゼ、正式にはβ-ガラクトシダーゼ)によってガラクトースとグルコースに加水分解される。これらの単糖類は小腸上皮に存在する糖輸送系によって細胞内に入る(吸収される)。したがって、乳糖の利用には乳糖分解酵素が決定的に重要な役割を演じている。

すべての哺乳類は、生後のある期間(生まれたときの体重がほぼ3倍になるまで)だけ、母親のミルクを唯一の栄養源として育つ。その期間が過ぎると親が食べるのと同じような食物を摂るようになる(離乳)。これは自然の経過であって、すべての哺乳動物に共通して認められる食行動の変化である。

離乳期が過ぎると、乳糖分解酵素の活性は急速に低下する。酵素活性の低くなった子どもが牛乳を飲むと、乳糖は分解されないまま腸内細菌の多い大腸に達する。腸内細菌は乳糖の一部を分解して乳酸・酢酸・蟻(ぎ)酸などの有機酸をつくる。これらの有機酸が腸壁を刺激して腹痛を起こし、発生するガスは腹鳴・腹部膨満感・鼓張の原因となる。腸内細菌による分解を免れた乳糖は、その高浸透圧性によって、腸管の水分吸収を妨げるとともに腸壁からさらなる水分を奪いとって下痢を誘発する。

このような症状を体験したことのない西洋人は、多くのアジア・アフリカ人が牛乳を飲んで腹鳴・腹痛・下痢を起こすのを見て「乳糖不耐症(lactose intolerance)」と名付けた。離乳後に牛乳が飲めなくなるという正常な発達過程を「乳糖不耐症」と呼ぶのはあまりにも西洋中心主義的である。離乳後も生涯にわたって牛乳が飲めることのほうが異常で「乳糖分解酵素活性持続症(lactase persistence)」と名付けるべきだとする意見もある。

ランセットに掲載された乳糖不耐症の激烈症例

それでは、「乳糖不耐症」ではどんな症状が現れるのか。スーダン出身の医師が医学雑誌『ランセット(Lancet)』に自分の凄まじいまでの乳糖不耐症について書いている*。この論文の要訳が『食と文化の謎 ― Good to eatの人類学』(マーヴィン・ハリス著、板橋作美訳、岩波書店 1988年8月)に載っているので、その要訳をお目にかける。なお、原題の日本語訳は「乳糖不耐症による過敏性腸症候群」である。<>内は筆者。
*Ahmed HF. Irritable-bowel syndrome with lactose intolerance. Lancet 2(7929): 319-20, 1975.

わたしはスーダン出身の31歳の医師で、・・・妻と2歳の娘があり、国でよい教育を受ける幸運にめぐまれ、今はまたイギリスにいる。しかし、わたしの人生は、腸の不調をいつも気にかけ、そのことばかり考えている日々であった。おぼえている最初のはっきりした徴候は、9歳か10歳のときで、ときどき、水のような下痢をともなう激しい腹痛におそわれるようになった。腹がゴロゴロ鳴り、しじゅうおならが出、たとえ量は出ても満足な排便ができず、悩まされた。日にいく度も便所にいきたくなり、何時問も便器のうえで脂汗を流し、そのあげく、ようやくのことで、ほとんどなくなった歯みがきチューブからしぼりだしたような細い便が、ほんのわずか出るだけだった。<中略>

この国(イギリス)に来て、症状がいちじるしく悪化したことに気づいた。わたしはそれを、異文化のなかでの生活と、(医学の)試験勉強のストレスが原因と考えた。毎日の仕事は地獄の試練となった。コーンフレークとミルクの軽い朝食しかとっていなかったのに、病棟の巡回はたえがたい苦痛であった。巡回中、おならをこらえ腹の鳴る音をおさえていなければならず、おわると脱兎のごとく家にもどって、トイレにかけこみ、何回もの腸の大爆発に身をゆだねるのだった・・・わたしは決心した・・・ふすまでなおそうと ー ふすまは、腸の状態が悪いときの治療薬の主成分として推奨されていた。わたしは、毎朝の、ミルクにまぜるふすまの量を、少しずつふやしていった。ところが、驚いたことに、症状はかえって悪化した・・・絶望的な気持ちになりはじめていたとさ、まったく偶然に、新しく来たコンサルタントと雑談していて、わたしの病気を話す機会があった。彼女は、これは乳糖が原因の可能性がある、と言った。しぶしぶわたしは検査を受けることに同意したが、そんな病原がみつかることなど、ほとんど期待していなかった。

わたしが受けたラクトーゼ許容度テストは、まさに劇的だった。数年前、まだ国にいたとき経験した、コレラによるひどい腸炎の症状とまったくおなじだった。ラクトーゼを飲んで30分もしないうちに、腹がものすごい音でゴロゴロ鳴りだし、最後には病棟のはじにいるひとにもきこえるほどだった。2時間後、学生たちの巡察教習の時間になると、わたしは猛烈な腹痛におそわれ、悲惨このうえない状態におちいった。 

ミルクなしの食事をはじめて2、3日すると、頑固な腹部の膨張感がなくなり、頻繁におならをしなくてもよくなっていた。腹がゴロゴロ鳴らなくなり、わたしの人生ではじめてといってよいほど、腸が正常な活動をした。体重はへらなかったが、ウエストがしまり、今度はそのことが、病棟巡回のときに、あらたな問題をおこした。気がつくとズボンがズリ落ちているのである。わたしは、トイレにではなく、ズボンつりを買いに、飛びだしていかなければならなかった。<後略>

第二次世界大戦後、欧米の先進国は、食料難に喘ぐアジア・アフリカ諸国の子どものために「善意」で粉ミルクを援助した。ミルクを初めて口にした子どもたちに腹痛・下痢が頻発した。援助国は「自分たちが毎日食べているものが腹痛・下痢を起こすはずがない。粉ミルクに加える不潔な水によって起った細菌性腸炎だ」と考え、「沸騰した水で粉ミルクを溶かして子どもに与えよ」と指導した。しかし、こんなことで腹痛・下痢が納まるわけはなかった。援助物質のミルクそのものが原因だったからである。しかし、欧米人が自分たちの考えを捨て去るには長い時間を要した。

日本人の乳糖分解酵素の活性は14〜15歳で乳児期の10分の1に低下し、以後ずっと低い活性のままで経過する。日本人の中にも、牛乳を飲み続けることによって、牛乳が飲めるようになるひとがいる。飲乳による乳糖分解酵素活性の誘導と腸内細菌叢の変化によって起こる適応の結果と考えられる。しかし、日本人の適応は不完全で、大量の牛乳を飲めばほとんどの日本人に腹部の不快症状が発生する。

なぜ乳離れが起こるのか

前に述べたように、自然界の乳糖は哺乳類のミルクの中にだけ存在する。なぜ、ミルクが乳糖という特殊な炭水化物を含んでいるのか? なぜ、離乳という現象が哺乳類に存在するのか? それは、生まれた子どもがいつまでもミルクを飲んでいると、母親が次の子どもを宿すことができないからである。

母動物は子がミルクを飲み続けている間は妊娠しない。子の鳴き声、乳首の吸引などによるプロラクチン・オキシトチンの分泌が排卵を抑制するからである。人間でも授乳中は無排卵、無月経であることが多い。兄弟姉妹の年齢が2歳以上離れていることが多いのは授乳中の妊娠が少ないからである(ヒトの妊娠期間は約280日)。年子(としご;一つちがいのきょうだい)の存在は、出産後3カ月以内(授乳期間)に母親が妊娠した結果である。

子どもがある程度成長すると(体重が生れたときの3倍)、母動物に繁殖期が訪れる。この時期になると、母親もミルクを欲しがる子どもを遠ざけるようになる。子どもはやむを得ず、ミルクの代わりに親が食べているようなものを食べるようになる。すると母親に排卵が起こって、次の子どもを宿すことができる。子どもがいつまでもミルクを飲んでいては困るのだ。これが、すべての哺乳類に離乳機構が備わっている理由である。哺乳類が子孫を残せるように、ミルクが乳糖という不思議な炭水化物を含むようになったのである。哺乳類はすべて、その子どもが生後の一定期間だけ母親のミルクを飲んで育つように遺伝的にプログラムされている。

ヒトのなかには離乳期以後も乳糖分解酵素の活性が高く保たれたままの人たちがいる。この人たちは、生涯にわたって腹部不快感を起こすことなく大量の牛乳が飲める。足立達「液状牛乳および発酵乳における糖質の生理機能」(『牛乳成分の特性と健康』光生館、1993年6月)によると、この乳糖分解酵素活性持続症の集団は、約8000年前にメソポタミアの「肥沃な三日月地域」で突然変異によって出現したと云われている*。この集団が北の日照時間の短い、寒冷な地域に移動した。わずかな太陽光の有効利用のために皮膚の色が薄くなる突然変異が選択された。この変異集団(コーカソイド)はタンパク質とカルシウムを濃厚に含むミルクを食用にすることが生存の必須要件であった。乳糖分解酵素活性持続症は小麦とミルク(および肉)を基本とする食生活を可能にしてこの突然変異種の生存を支えた。言い換えれば、現在の西洋人は、離乳後もミルクを飲めるようになった人類の一変種の子孫である。この人たちが牛乳を飲んで腹痛・下痢を起こすアジア・アフリカ人を「乳糖不耐症」と呼んだのである。
*Simoons FJ. The geographic hypothesis and lactose malabsorption. A weighing of the evidence. American Journal of Digestive Diseases 23, 963-80, 1978.

これから何回もくり返し述べることになるが、牛乳は、生まれたばかりの子ウシの成長と発達を促すために、たくさんのホルモンやホルモン様物質を高濃度に含んでいる生化学的液体(ホルモンカクテル)である。牛乳は、母ウシの「白い血液」で、単に栄養分を与えるだけでなく、細胞の分裂と増殖を刺激して子牛の急速な成長を促す。さらに、最近の牛乳は、妊娠した牛から搾られているために大量の女性ホルモン(卵胞ホルモンと黄体ホルモンを含んでいる(現代牛乳の魔力ー牛乳は妊娠した牛から搾られているを参照)。離乳期を過ぎた人間の子どもや成人は妊娠したウシの白い血液などを飲んではいけないのである。

幸いなことに、アジア人やアフリカ人は、離乳期が過ぎると乳糖分解酵素の活性が急速に低下するために、成長するとウシの白い血液が飲めなくなる。大量の牛乳を飲むと、その大部分が吸収されずにそのまま腸管を下ってしまう(下痢)から成人では害が少ない。つまり、お腹がゴロゴロして下痢を起こるために牛乳が飲めないということは日本人にとって慶ばしいことなのである。ただし困ったことに、前思春期(9〜12歳)の日本の子どもには乳糖分解酵素の活性が多少残っていて、飲んだ牛乳の成分が吸収される(子どもの身体に女性ホルモンが入る!)。 

牛乳に乳酸菌を加えると乳糖の一部が分解されて、牛乳が飲めない日本人にも飲めるようになる。これをヨーグルト(発酵乳)という。お腹にやさしいとヨーグルトを愛好する日本人がいる。お腹にやさしいということは牛乳のホルモンが吸収されるということである。ヨーグルトは日本人にとって最悪の食品である。

離乳後もミルクを飲む哺乳動物は一部の人間に限られている。牛乳をそのまま(全乳のことで、最近は生乳という。現在は滅菌・減菌している)飲むという習慣は圧倒的に西洋人(皮膚の色の薄い人たち;コーカソイド)に多い。コーカソイドだって、彼らが思っているほど大昔から牛乳をふんだんに飲んでいたわけではない。彼らの多くが牛乳を飲み始めたのは今から150年ほど前の19世紀の後半になってからのことに過ぎないという説がある(本章末尾のコラム「牛乳の歴史」を参照)。

現在の西洋人が定着した地域(北緯50度以北)は、ひとの食用になる穀物の育たない寒冷の地であった。その大地には弱々しい草しか生えなかった。ひとはその草で生きていけないが、ヒツジやウシは草を食って育つ。ひとはやむなくヒツジやウシを食って生活するようになった。肉を食うにはその動物を殺さなければならない。しかし、これらの動物が分泌するミルクを利用すれば、貴重な財産である動物を殺さなくて済む。肉と乳製品の両方を利用することで本格的な牧畜が始まった。たとえば、モンゴルの典型的な遊牧民は、ヒツジやウシがミルクを分泌する夏には乳製品(白食)を食べ、ミルクが出なくなる冬には肉(赤食)を食べていた。つまり、牧畜民族では乳食と肉食は一体である。

日本人はアメリカに憧れて牛乳を飲むようになった

日本人が多少とも牛乳を飲むようになったのは明治時代、すなわち西洋文化の本格的な到来以降のことである。外観を西洋風にすることを文明開化といい、髪型をザンギリにし、洋服を着ることが洋風ということになった。皇族の正装は燕尾服にシルクハット、皇室の正餐はフランス料理とされた。当然、西洋人が好む牛乳の効能も喧伝された。しかし、食習慣のような文化の基層をなすものは簡単には広まらない。明治中頃の東京での牛乳消費量は年間一人当たり1・2リットル程度であったという。一般人が簡単に口にできるものではなく、牛乳は薬として用いられていたらしい。

明治前の日本に獣の分泌液を食用にするなどという発想は生まれなかった。獣乳は日本人の忌み嫌うものであった。その日本人がなぜ牛乳を飲むようになったのか。日本人は好奇心が強い。体格のよい西洋人は何を食っているのか。江戸末期・明治初期の日本人は好奇の眼で西洋人の食べ物を観察したことだろう。西洋人は獣肉を食らい、牛乳という白い液体を飲んでいる! あれが彼らの秘密兵器だ! 西洋人のように大きく強くなるには、獣肉を食い牛乳を飲まなくてはならない! 牛乳神話の始まりである。

第二次世界大戦後、日本の多くの小学生がアメリカの脱脂粉乳をお湯に溶かした「ミルク」を飲んだ。1940年代生まれのものには、あれで牛乳が飲めなくなったという人もいるが、あの脱脂粉乳で牛乳の味と匂いを覚えたものもいる。1954年には学校給食法が公布された。学校給食の主体はコッペパンと牛乳であった。子どものときに食べたものの味は一生忘れない。学校給食で「パンとミルク」の味を覚えれば、大人になっても「パンとミルク」を食べる。結果的に、日本人は官民こぞってアメリカの「小麦戦略」に協力することになってしまったが、中心的役割を担ったのは厚生省(現厚生労働省)であった。

戦後の厚生省に新設された栄養課の課長補佐となり、1953(昭和28)年に課長に昇進し、その後10年間にわたって栄養改善運動を推進した大磯俊雄氏は、著書『栄養随想』(医歯薬出版、1959年1月)において次のように述べている。

「米を食う人々の性格と麦を食う人々の性格は自ら異なるところがあって、前者の、在るから食うという考え方に対し、後者は食うから在るのだという考えを持っている。これは共にその食べ物から来る考え方であって、前者が諦観的、消極的なのに反し、後者の方が進歩的、積極的ではなかろうか?」

「小麦粉それ自体そのまま捏(こ)ねて食べたところで一向に美味しいものではない。そこで何とかうまく食う工夫はないものか? 牛乳や乳製品を副(そ)えたらどうか、肉を副食として食ったらどうか? 野菜のスープと一緒に食べたら食べられぬものかといった具合に、大いに工夫して、今日の小麦中心の食生活文化が発達してきたものである」

「(米中心の食生活は)勢い、生活は簡単、消極的となり、従って金もかからず金の要求も少ない。その結果は残念ながら、貧乏につながってくるのである。即ち、米を食うという生活は人をして消極的になり、勤労意欲を消滅し、従って貧乏となる。貧乏になれば、肉や魚や野菜を購(あがな)う力がないから、やはり廉(やす)い米ばかりをたら腹食うということになり、その結果は、必然的に睡気(ねむけ)をもよおし、思考する方向に頭脳が働かぬということになる。この因はこの果を生み、米を食う習慣は貧乏と一つの環をなして回転しているように思われる。東南アジアに住む10億の米を作り、米を食う民族は、等しくこの運命にさらされていると思う」

「この人達は、あまりにも米中心の食生活のため、そこから必然的に生まれてくる栄養欠陥を身につけて、体力は欧米の小麦食の人々に劣り、寿命は短く、乳幼児の死亡率は高く、結核やトラホームなどの慢性病、また胃の酷使による胃腸病は著しく多い。その上精神的にもねばりの強い積極性を欠き、発明、発見、工夫なども残念ながら欧米人よりも少ない」

「私どもをはじめ、東南アジアの各民族、これらはみな米を中心とした食事をする民族であるが、これらの民族が、今後地球上で西欧の民族と肩を並べて繁栄していくためには、どうしても、米とのきずなをどこかで断ち切らねばならない」

「従ってできるだけ米食を減じて、進んで小麦食を併用することに努め、自然と食生活上の栄養的工夫を身につけるよう心がけるべきだ」

戦後の日本の栄養行政の推進役であった厚生省の栄養課長が「コメはダメだ」「メシよりパンとミルクだ」と考えて栄養改善運動(=粉食奨励・牛乳普及運動)を推し進めたのである。日本人の食生活の変化は、大磯氏の目論見通りに進行した。しかし残念ながら、「米を食っていたから戦争に負けた。米を食べると頭が悪くなる。これからはパンとミルクだ」は決して大磯氏の独善ではなく、当時の多くの教養のある日本人の共通認識でもあった。

朝日新聞の「天声人語」に次のような文章がある(『米と糖尿病ー日本人は炭水化物を制限してはならない』(径書房、2010年7月)。

「胃拡張の腹一杯になるまで米ばかり食うので、脚気や高血圧などで短命なものが多い。津軽地方にシビガッチャキといって、めし粒を食ったコイや金魚のようにブヨブヨになる奇病さえある▼日本では米を“主食”というが、今の欧米人は畜産物が主食で穀物が副食物だ。五十年前まではアメリカの農民も穀物の方を多く摂ったが、今では肉、牛乳、卵などの畜産物を主食にするのが世界的な傾向だ。その点では日本は百年も遅れている」(1957ー昭和32−年9月3日)

「栄養審議会では日本人の「食糧構成」について厚生大臣に答申を出した。一口にいうと、米食を減らして小麦の粉食をふやし、農家では油脂類を自家消費できるように増産し、有色野菜をもっと食べるとよい、というにある▼逆説的にいうと、米のめしはうますぎるのが“玉にキズ”だ。うまいのでつい余計に食べる。おまけに豊作続きで、農村ではすっかり“大めし食い”が復活した。それがビタミン欠乏症の原因なのだから、その点では豊作も幸か不幸かわからない▼池のコイや金魚に残飯ばかりやっていると、ブヨブヨの生き腐れみたいになる。パンクズを与えていれば元気だ。米の偏食が悪いことの見本である。若い世代はパン食を歓迎する。大人も子どもの好みに合わせてめしを一日一回くらいにしたほうがよさそうだ」(1959ー昭和34−年7月28日)

今では信じられないだろうが、朝日新聞の「天声人語」は大学入試の国語の問題に度々出題され、高校の先生が「新聞全体は読めなくてもせめて天声人語だけは読め」と檄を飛ばすほどに信用されていた。戦後の「朝日新聞」とくに「天声人語」は多くの日本人に良心の塊と思われていたのである。その「天声人語」が「米を食う日本は肉・牛乳・卵を食う欧米に百年も遅れている」などと書いたものだから、日本人はみんな「その通りだ」と合点してしまった。「朝日」だけでなく、「読売」「毎日」の論説委員もおそらく同様な思考回路のなかにあったことだろう。 

連合軍(占領軍)最高司令官マッカーサーに四等国と貶められた可哀相な、混乱期のニッポン。敗戦国の屈辱と戦勝国への憧憬を抱く日本人にはアメリカ人の生活のすべてが眩いほどの光彩を放っていた。日本古来のものはすべて悪いと思い込んだ日本人は、牛乳が飲めないのはお前が悪いのだと、腹痛・下痢を訴える子どもにも牛乳を飲ませた。

国策によって日本人は米食民族から乳食民族になった

日本政府は、1954(昭和29)年に酪農振興法(現在は「酪農及び肉用牛生産の振興に関する法律」)をつくって、酪農経営を強力にバックアップした。酪農振興のために多額の税金を惜しみなく注ぎこんだ。さらに、「国は、国内産の牛乳及び乳製品の消費の増進を図ることにより酪農の発達に資するため、国内産の牛乳及び乳製品を学校給食の用いることを促進し、流通の合理化を促進するための援助を行う」と定めた。日本政府は、牛乳飲用の普及を国家事業と位置づけたのである。つまり、学校給食の牛乳は単に文部省という一省庁の施策ではなく、日本国家の基本方針だったのである。

そのおかげで、牛乳・乳製品の消費量が著しく増大した。まず、コメと乳・乳製品の摂取量(厚生労働省の国民健康・栄養調査)の推移をご覧いただきたい(下図)。

1951〜65(昭和26〜40)年ごろの日本人は1日350gほどのコメを食べていたが、1966(昭和41)年ごろから急激にコメの摂取量が減り始めた。現在の日本人は、コメをよく食べていた1960年ごろに比べると、その半分に満たない量(1日150gほど)のコメしか食べていない。

その一方で、乳・乳製品の摂取量が大幅に増えた。1946年に一人当たり1日3・1g(年間1・13kg)であった摂取量は、1960年32・9g(12・0kg)、1970年78・8g(28・8kg)、1980年115・2g(42・0kg)、1990年130・1g(47・5kg)となり、1995年には144・4g(52・7kg)に達した。1995年の摂取量は1946年の実に47倍である。

しかし、その後の国民健康・栄養調査では、日本人の乳・乳製品の摂取量が低迷し、2000年には127・6g(46・6kg)、2005年には125・1g(45・7kg)になっている。したがって、厚生労働省の栄養調査の結果を眺めるかぎり、まだ日本人は乳・乳製品よりコメをたくさん食べているようにみえる。

実は、上に述べた国民健康・栄養調査は日本人の乳・乳製品の消費の実態を反映していない。後で述べるように、現在の栄養調査は乳製品の摂取量を的確に把握できないのだ。農林水産省の食料需給表によると、日本人の年間のコメ消費量は800万トン程度であるが、乳・乳製品の消費量は約1200万トンにものぼっている。なんと、日本人の乳・乳製品の消費量はコメの消費量を大幅に上回っているのである。日本人は米食民族にあらずして乳食民族になってしまった!(図)。  

コラム 和食:日本の伝統的な食文化

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食料需給表に基づく乳・乳製品の消費量と国民栄養調査による摂取量を比較してみよう()。2000年の、日本人一人当たり1日の消費量は258・1g(一人当たり年間94・2kg)で国民栄養調査での摂取量127・6g(46・6kg)の2倍となっている。つまり、国民栄養調査は日本人の乳・乳製品の摂取量をほぼ半量程度に過小評価しているのである。

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栄養調査はあてにならない

こんなことになる原因は国民栄養調査の食品分類にある。「乳類」(牛乳・乳製品)とされているのは牛乳・チーズ・ヨーグルト・クリームだけで、バターは乳類ではなく「油脂類」に分類されている。乳製品たっぷりのシュークリーム・ショートケーキ・ドーナッツ・ミルクチョコレート・デニッシュペストリーなども乳類ではなく「菓子類」に分類されている。小麦・加工品(穀類)に分類されているパンは、本来、小麦粉に塩とイーストを加え、水で練ったパン生地を焼いたものだが、日本でよく食べられている食パンの生地には牛乳とバター(あるいはマーガリン)が添加されている。食パンだけでなく、女性が大好きなクロワッサン(バターをパン生地で包んで焼き上げた、菱形あるいは三日月形のパン)も「小麦・加工品」に分類されているのである(下図)。

くり返しになるが、クロワッサンを例にして栄養調査に関してもう少し述べる。日本食品標準成分表(2005年)を見ると、クロワッサンは「穀類」「こむぎ」に分類されている、この「パン」は100グラムのエネルギーが448kcalの高カロリーパンである。また、クロワッサンが、「穀類」「こむぎ」「パン」でありながら、100グラム当たり26・8グラムもの脂肪を含む高脂肪食品(脂肪のエネルギー比53・8%)であることがわかる。さらに、食品成分表はクロワッサンのビタミン・ミネラル・コレステロール・脂肪酸・食物繊維・食塩などの含有量を表示している。

ところが、この「パン」がどのくらいの乳製品を含んでいるのか全く判らない。つまり、栄養調査が食品成分表に準拠している限り、クロワッサンをいくら食べてもカロリー・タンパク質・脂肪・炭水化物・ビタミン・ミネラルなどの摂取量が計算されるだけで、牛乳・バターの摂取量は完全に無視されてしまうのだ。このことは、以下に述べる菓子類にも共通している。

乳製品たっぷりのケーキは「お菓子」に分類されてしまう

乳製品が最も広く使われている加工食品は菓子類である。バター・クリームなどの乳製品を使っているものが洋菓子で、水飴・米・小麦・小豆・砂糖などの植物由来の原料だけで作られるのが和菓子である。最近ではこの和菓子にバター・クリームなどの乳製品を加えた洋風和菓子というジャンルすら生まれた。

若い女性は洋菓子(スウィーツ)が大好きだ(看護学部の学生に対する筆者の調査では洋菓子派7に対し和菓子派3であった)。駅中のバター・クリームの香りを放つケーキ屋はいずこも女性客でいっぱいである。市販の洋菓子を買うだけではない。書店には多数のレシピ集が並び、家庭で洋菓子を作る日本人も多くなった。これらの乳製品いっぱいのスウィーツをどんなにたくさんの食べたところで、その乳製品の摂取量は「乳類」ではなく「菓子類」にカウントされてしまうのである。

さらに、乳・乳製品がいろいろな加工食品にそっと加えられているため、消費者がそれと気付かぬうちに乳・乳製品を口にしていることもある。カタカナ名の加工食品には乳製品の使われているものが多い。カ○プ・ヌードルやカップ麺などにも乳製品の使われているものがある。チーズ・粉ミルクを含むカレーのルーがスーパーの商品棚に並んでいる。牛乳を食酢で白い固まりにしたという牛乳豆腐などという奇妙なものもあった。驚いたことに牛乳を添加した「讃岐うどん」なんてものが売られていた。日本人は思わぬ食品から乳・乳製品を摂ってしまっているのである。

こんなにたくさんの食品に牛乳が使われているのは、乳製品メーカーが生の牛乳を長期保存が可能で食品加工業への販売に便利な粉乳(粉ミルク;全粉乳・脱脂粉乳)につくり変えているからである。ヨーグルト・アイスクリーム・ソフトクリームなどの乳製品の大部分は液体の牛乳ではなく粉ミルクから作られている。ケーキ・クッキーなどの菓子類をはじめ、洋風加工食品の製造に大量の粉ミルクが使われている。

さらに最近の日本人は、グラタン・シチュー・チャウダーなどの欧米の家庭料理を自分で作るようになった。このようなカタカナ料理には牛乳・クリーム・バター・チーズなどの乳・乳製品の使われることが多い。が、和風グラタン、和風シチュー、和風チャウダーなどという言葉もあって、このような料理にどの程度の乳製品が使われているのかわからない。

乳食文化が日本に根付いてしまった

現在、日本史上はじめて子どものときから大量に乳・乳製品を飲みかつ食べるようになった日本人(1960年以降の生まれ)が大挙して40代の後半(いわゆるがん年令)に突入している。農林省・厚生省・文部省による乳・乳製品の強要が、今後ますます、前立腺がん(男性)や乳がん(女性)などのホルモン依存性のがんの発生を激増させるであろう。その兆しはすでに明明白白である(牛乳と乳がん)。先にも述べたが、日本では1996年ごろから乳・乳製品の消費量(食料需給表)が低迷しはじめた。おそらくその30年くらい後(2026年ごろ)になって初めて日本人の乳がんと前立腺がんの発生率が高止まりするだろう。

前に述べたように、日本人がバターやクリームなどの味と香りを受け入れた最大の理由は西洋文明に対する強い憧れである。日本人は、アイスクリーム・ケーキ・チョコレート・ビスケットなどの洋菓子に文明(西洋文化)の香りを嗅ぎとったのだ。クリスマス・イブや誕生日に、母親は決まってデコレーションケーキをテーブル(食卓)に載せる。結婚披露宴で花嫁は、新婚生活の初仕事と称して大きなデコレーションケーキにナイフを入れる(入刀式というのだそうだ)。男女共同参画社会を謳う今日では花婿も花嫁に手を添えて入刀を手伝う。ヨーロッパやアメリカでこんなばかばかしい儀式を行うものか。彼の地の披露宴では飲んで唄って踊る。戦前の日本でも同様であった。入刀式などというものは、どこかのホテルの披露宴係(ブライダルアドバイザーというそうだ)が、いかにして客に金を費わせるかと知恵をしぼって思いつき、それが全国に広がったのだ。

保育園でも○○ちゃんの誕生日にはショートケーキが用意され、「Happy birthday to you. Happy birthday, dear ○○ちゃん」と唱う。小学生になれば、仲よしの友だちを招いて乳製品たっぷりのケーキとクッキーで誕生日のお祝いをする。赤飯で誕生を祝うという日本の風習はすでに風前の灯火である。自宅で牡丹餅(ぼたもち)や御萩(おはぎ)を作る家庭もほとんど消え失せた。クリスマス・イブ(12月24日の宵)には、ツリーを飾り、ケーキを食べ、プレゼントを交換する。高齢者の家庭を除いて、この節季に冬至南瓜(カボチャ)や冬至粥(あずき粥)を食べるという風習は間もなく絶えるだろう。伝統が絶えるのは寂しいことだが、冠婚祭のケーキはもうやむを得ない。風俗・習慣は時代とともに変わるものだから。

<コラム>牛乳の歴史

日本人だけでなく西洋人自身も、ヨーロッパではずっと大昔から牛乳が飲まれてきたと思っているが、それは事実ではない。ヨーロッパで牛乳飲用が始まったのはわずか150年ほど前(1850年ごろ)のことである。それ以前には、牛乳はバターとわずかなチーズを作るために搾られていたに過ぎない。 続きを読む・・・・・


<別記>モンゴル遊牧民の乳搾り

現代の酪農は古来からの伝統的な乳搾りと大きく異なっている。酪農の原点を探るために2000年の夏に中国・内モンゴル自治区の遊牧民を訪ねた。漢民族の農耕地から遠く離れた地域で遊牧を行っているモンゴル人のゲル(遊牧民の移動式住居。中国語でパオ<包>)に泊めてもらって乳搾りを見学した。 続きを読む・・・・・


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